佐賀県にある弥生時代の遺跡「吉野ヶ里遺跡」
日本最大規模の弥生時代の環壕集落跡として国の特別史跡にも指定されている、佐賀を訪れるなら必見の遺跡です。
弥生時代と言えば思い浮かぶのは「邪馬台国」や「卑弥呼」といったキーワード。
吉野ヶ里遺跡が邪馬台国であるという証拠は発見されてはいませんが、「ここがそうなのかも」と思わせる雰囲気があり、邪馬台国に関係ある遺跡だという説も発表されているとのこと。
古代の歴史ロマンを味わうべく、「吉野ヶ里遺跡」に行ってきたのでご紹介します♪
吉野ヶ里歴史公園
こちらは、吉野ヶ里遺跡がある「吉野ヶ里歴史公園」の入り口です。
吉野ヶ里遺跡は、遺跡とその周辺部の117ヘクタールが「吉野ヶ里歴史公園」として整備されており、園内には遺跡のほか、多目的広場やイベント会場など様々な施設が設けられています。
広大な園内には入り口が多数ありますが、遺跡をメインに見たいなら「歴史公園センター(東口)」から入園するのがベター。駐車場も広大です。
営業時間・休園日・入場料の詳細は下記。
『吉野ヶ里歴史公園』の情報
- 住所:佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843
- アクセス:長崎自動車道東脊振ICより車で約28分
- 営業時間:9:00~17:00(6月~8月は~18:00)
- 休園日:無休12月31日、1月の第3月曜日とその翌日
- 入場料:大人460円 65歳以上200円 中学生以下無料
入り口でチケットを購入し(大人460円)、さっそく公園内へ。
入り口を抜けると、吉野ヶ里歴史公園のマスコットキャラクター「ひみか」がお出迎えしてくれました♪
上が今回訪れたエリアとルート。吉野ヶ里遺跡はかなり広大です。
今回は、歩いて遺跡を巡りながら北にある「北墳丘墓」へと向かい、帰りは北墳丘墓から無料送迎バスに乗り、入り口の駐車場まで戻りました。
主要な遺跡エリア(南のムラ → 倉と市 → 南内郭 → 北内郭 → 甕棺墓列 → 北墳丘墓)を歩くだけで30分弱。かなり急ぎ足で見学して所要1時間の行程です。
さて、ここで「吉野ヶ里遺跡」とは、どんな遺跡なのか。ちょこっとご説明します。
「吉野ヶ里遺跡」とは?
吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる弥生時代の大規模な遺跡。
概要と特徴、歴史的な意義は下記の通り。
- 「吉野ヶ里遺跡」の概要
- 時代:弥生時代(紀元前3世紀頃~紀元後3世紀頃)
- 発見:1986年、本格的な発掘調査が行われ、全国的に注目される
- 遺跡の広さ:およそ40ヘクタール以上(現在は「吉野ヶ里歴史公園」として整備)
- 主な特徴
- 環濠集落
- 濠や柵で囲まれた防御的な構造の集落
- 内部には居住区、祭祀施設、倉庫などが配置
- 外敵や動物から守るための設計と考えられる
- 物見やぐら・城柵
- 高床式の物見やぐらが再現されており、見張り役がいたことが示唆される
- 墳丘墓・甕棺墓
- 指導者層や有力者と見られる人物の墓が確認されている
- 豊富な副葬品が出土(銅剣、銅鏡、玉類など)
- 祭祀施設
- 祭壇や神聖視されたエリアの跡が見つかっており、信仰や儀式の存在が示唆される
- 環濠集落
- 歴史的意義
- 弥生時代の社会構造:農耕を中心とした共同体の存在、身分差の発生などを具体的に示す証拠
- 邪馬台国との関係:卑弥呼の時代に該当する遺構もあり、邪馬台国との関連が議論されることもある
- 国の成り立ちへの手がかり:日本列島における「国家」形成の原型をうかがえる遺跡
吉野ヶ里遺跡の概要をおおまかに把握したところで、さっそく遺跡の見学を開始しましょう〜!
遺跡入場門と逆茂木
まずは、この鳥居のような門をくぐって、遺跡のエリア内へ。
門のところには、濠があります。
吉野ヶ里遺跡は二重の濠に囲まれ、外敵から厳重に防御されているのが特徴です。
入場門をくぐると、「逆茂木(乱杭)」があります。
逆茂木とは、先端を尖らせた木の枝を外に向けて並べ、敵を近寄らせないようにした障害物のこと。
縄文時代にはこのようなものは無く、弥生時代になって生まれたと考えられています。
紀元前10世紀、大陸から北部九州に水稲耕作技術が伝わると、日本列島の人々の生活スタイルが、狩猟採集中心の生活(縄文時代)から、農耕を主とした生活(弥生時代)へと変わっていきました。
農耕が始まると、開墾や用水の管理など多くの労働力が必要となり集団が大型化。「ムラ」が生まれました。また、米は保存が可能なため「富」が生まれ、「格差」も生まれました。
「富」と「格差」は人々の対立を生みます。「ムラ」同士の間には富や耕作地、水利権などを巡って度々争いが発生。大規模な戦乱も起こるようになり、「ムラ」は外敵の侵入から身を守るため濠を築いたり、物見櫓を建てて監視したりするようになりました。
農耕は人々に豊かさをもたらすと共に、争いも生み出したのです。
イノシシのオブジェ(これが何なのかは不明)を眺めながら、南にある「南のムラ」へと向かいます。
南のムラ
「南のムラ」は、吉野ヶ里集落の一般の人々が住んでいたとされる場所。高床建物や竪穴住居など、27棟の建物が復元されています。
上の写真は、竪穴建物(竪穴式住居)。
地面を掘り下げて床とし、その中に掘立柱を建てて梁や桁、垂木を組み、土や葦などで屋根を葺いた建物です。
竪穴式住居の内部です。
真ん中にかまどがあります。
以前訪れた縄文時代の復元住居と比べ、住居はかなりしっかりした造り。
こちらは、高床倉庫(高床式倉庫)。
弥生時代に穀物を蓄える施設として一般に普及したと考えられています。
柱にはネズミの侵入を防ぐためのねずみ返しがあります。
こちらは、平地式建物。
こちらも穀物を貯蔵する倉庫として利用されたと考えられています。
こちらは、高床倉庫の内部。貯蔵されていた食糧が再現されています。
弥生時代、人々は何を食べていたのでしょうか。
吉野ヶ里遺跡が運営するWEBサイト「弥生ミュージアム」によると、弥生時代人は米のほかに、小麦、アワ、ヒエ、小豆などの雑穀を栽培し食べていたことが、各地の遺跡から出土する炭化穀物などによって明らかになっているとのこと。
これらの主食は水を加えて炊き、雑炊のようにして食べていたと考えられているそう。
そのほか、シカ、イノシシなどの野生動物や、アワビ、カキ、マダイ、マグロなどの魚介類、カモ、キジなどの野鳥類が食料になっていたことがわかっており、果物や野菜、山菜やキノコなども当然のことながら食べていたと想像できるとのこと。
調味料としては、製塩土器が出土していることから、塩で味付けしていたと考えられ、中国の歴史書「魏志倭人伝」の記述から、酒があったことも知られています。
こうしてみると、味付けのバリエーションは少ないものの、弥生時代のお食事、意外と美味しかったのかもしれません。
「南のムラ」を散策した後は、北へと向かい、「倉と市」のゾーンへ。
歩いていくと、高床倉庫がたくさん並ぶ集落が見えてきました。
倉と市
ここが、「倉と市」のゾーン。
吉野ヶ里の支配者層が生活をしていたとされる「南内郭」の西側にあります。
吉野ヶ里の「クニ」の倉庫群があるほか、市が開かれていたと考えられています。
写真は復元展示された高床倉庫。たくさんあります。
「市楼」は、ここで開催される市を管理する建物。下の階は市に参加する許可をもらう場所になっており、上の階は市の開催を知らせる旗と太鼓があり、兵士が見張っていたとのこと。
設置されていた太鼓をドーンと叩いた後、東側にある「南内郭」へ。
南内郭
ここが、「南内郭」
吉野ヶ里の支配者層が生活していたとされる場所です。
広々とした空間に、物見櫓が4棟、竪穴住居が11棟、集会の館や煮炊き屋など、合計20棟の建物が復元されています。
「物見櫓」には登ることができるので上に登ってみました。
物見櫓からは、「南内郭」全体を見渡すことができ、遠くには神埼市の市街地も望むことができます。
近隣の「ムラ」が攻めてきたら、すぐにわかりそうです。
時間が無かったので全部の建物には入りませんでしたが、ほとんどの建物は中に入ることができるようになっています。
建物内部は、人形や小道具によって当時の暮らしぶりが再現されています。
ここに暮らしていたのは吉野ヶ里の支配者層。実際はどうだったのかはわかりませんが、人形は全員、シンプルなベージュの長衣を纏っていました。
建物をいくつか覗いた後、北東にある、まつりごとを司る最重要区域「北内郭」へ。
北内郭
「北内郭(王の宮殿)」は、吉野ヶ里のまつりごとを司る最重要区域。その中心には、吉野ヶ里遺跡最大の建物「主祭殿」が建っています。
ここで、田植えや稲刈りの日取り、戦いや狩りの祈りなど重要な事柄を全て決定していたと考えられています。
当時は指導者たちだけが出入りできた神聖な場所だったとのこと。
2階建ての「主祭殿」は中に入ることができるので、さっそく入ってみます。
こちらは、「主祭殿」の2階の様子。
解説を読む時間が無かったので詳細はわかりませんが、王を中心に多くの指導者たちが並んで座り、話し合いをしている様子。
ここでの人々の服装はカラフル。正装でしょうか?
こちらは、「主祭殿」の3階。
最高司祭者(巫女)が祖霊からお告げを授かるために、琴の音色に合わせて神がかりしようとしている様子です。
「巫女」というと「卑弥呼」を思い出します。
「卑弥呼」は、3世紀ごろ(弥生時代の終わり頃)に存在したとされる日本の女王です。
『古事記』や『日本書紀』などの日本の歴史書には記述はありませんが、卑弥呼は中国の歴史書『魏志倭人伝』(『三国志』の一部)に「倭国の女王」として登場し、邪馬台国(やまたいこく)という国を治めていたとされています。
卑弥呼は、神と通じる能力を持つ「シャーマン(巫女)」とされ、政治と宗教を一体化した統治を行っていたと考えられていますが、卑弥呼自身は自ら政治の表舞台に立つことはなく、弟が補佐していたと記録されているとのこと。
卑弥呼は、日本史における最初の記録に残る支配者。それが女性だというのも、なかなか面白いところ。
きっと、かなりインパクトのある人物だったのでしょう。
卑弥呼はどんな人物だったのかと想像を巡らせつつ、「主祭殿」を出て、最終目的地である「北墳丘墓」へ。
北墳丘墓
「主祭殿」を出て北へ。「北墳丘墓」へと向かいます。
今回は入園したのが、クローズの1時間半前の15時半。
約1時間見学して回り、そろそろ閉園時間が迫ってきていたので急ぎ足で!
北墳丘墓へと向かう道の両側には、素焼きで作られた「甕」がたくさん地面に埋まっていました。
こちらは、「甕棺墓列」
最初、ここでお酒でも作っているのかな?などと思っていましたが、後でこれは死者の遺体を埋葬した棺であることが判明!
「甕棺墓列」を抜けると、正面に緑の芝で覆われた丘が近づいてきます。
「北墳丘墓」です。
あの丘の裏側に入り口があります。
こちらが、「北墳丘墓」の内部。
北墳丘墓は、吉野ヶ里集落の歴代の王が埋葬されている特別なお墓。14基の本物の甕棺や出土品レプリカが展示され、多数のパネルで北墳丘墓の詳細が解説されています。
こちらが、甕棺のレプリカと甕棺に埋葬された弥生人を再現したもの。
先ほど道の途中にたくさん埋まっていた甕の正体がこれです。
解説によると、縄文時代までは人が亡くなると地面に穴を掘って遺体を直接埋めていましたが、弥生時代になると、石棺や木棺、甕棺に遺体を納めて埋葬することが始まったとのこと。
こちらは、甕棺の発掘状況を表したジオラマ。
かなりの数の甕棺が埋葬されたことが窺えます。
さて、そろそろ閉園時間の17時。
公園スタッフが「駐車場への最終バスが出発するので急いでください!」とアナウンス。
急いでバスに乗り込み、駐車場のある「歴史公園センター(東口)」へ。
佐賀県にある弥生時代の遺跡「吉野ヶ里遺跡」
日本最大規模の環壕集落跡として国の特別史跡にも指定されている、佐賀を訪れるなら必見の遺跡です。
緑溢れる広大な敷地には、弥生時代後期の様式を再現した98棟を超える建物が復元展示されていて、かなり見応えあり!
日本の黎明期「邪馬台国」の当時の風情を味わうことができます♪
『吉野ヶ里歴史公園』の場所・アクセス・営業時間
- 住所:佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843
- アクセス:長崎自動車道東脊振ICより車で約28分
- 営業時間:9:00~17:00(6月~8月は~18:00)
- 休園日:無休12月31日、1月の第3月曜日とその翌日
- 入場料:大人460円 65歳以上200円 中学生以下無料
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