ナイジェリアのブラック・プレジデント、闘うアフロビート、「フェラ・アニクラポ・クティ」!
「アニクラポ」とは、「死をコントロールする者」という意味だそうです。
ナイジェリアには、イボ族、ハウサ・フラニ族、ヨルバ族という三大民族がおりますが、フェラ・クティはその最大勢力であるヨルバ族の出身です。
存在感がすごい!闘うアフロビート「フェラ・クティ」
フェラ・クティは1938年、ナイジェリア最大の都市、ラゴス北部にあるアベオクタに生まれました。
小さい頃から音楽に親しんでいたフェラ・クティは、1958年にロンドンのトリニティ音楽大学に留学。
卒業後、本格的に音楽活動を始めます。
フェラ・クティがその音楽活動、また、人生においても転機を迎えたのが1969年のアメリカツアーです。
それまで彼らは当時流行していたハイライフ・ジャズを演奏していたのですが、アメリカにおいてジェームズ・ブラウンのファンクと出会い、彼は衝撃を受けます。
また、黒人差別の経験や、マルコムXやブラックパンサー党に関心を持ち始めたことも彼が変わる大きな要因でした。
そして、彼の音楽はアフリカ色を強め、政治的なメッセージが強いものへと変貌していくこととなります。
彼は自らの音楽を「アフロビート」と称しました。
1970年、ナイジェリアに帰国したフェラ・クティは、黒人の解放、アフリカの統一を唱え、キリスト教やイスラムとの決別を訴え始めます。
政治的メッセージを強めるフェラ・クティの音楽は人々の支持を集めました。
彼の存在はナイジェリアにおいて次第に大きなものとなっていったのです。
そんな中、1974年にフェラ・クティは当局によって逮捕されてしまいます。
大麻所持容疑と未成年者誘拐という謂れのない罪による逮捕でした。
2週間後、釈放された彼は政府への反発を強化。
自宅の周囲に有刺鉄線を張り巡らせ、「カラクタ共和国」というコミューンを設立し、政府に反抗する態度を露わにしました。
1975年に彼は再び逮捕されます。
以後、彼は計12回も逮捕されることとなります(全て証拠不十分で釈放)。
1977年には1000人の軍隊がカラクタ共和国を襲撃しています。
建物は焼かれ、彼の母も負傷しました。彼の母はその後、この時の怪我が元で亡くなってしまいました。
その間も彼は新しいアルバム、それも政府を批判する内容の曲を多く発表し続け、ナイジェリア国内でその存在は伝説的なものとなっていきました。
フェラ・クティとナイジェリア政府との闘いは以後も果てしなく続きました。
1984年には為替管理違反で懲役10年の実刑判決を受けますが、国際的な支援運動により1986年に釈放されています。
フェラ・クティが亡くなったのは1997年。死因はエイズによる合併症だったそうです。
黒人の解放、アフリカの統一を訴え、腐敗したナイジェリア政府と戦い続けたフェラ・クティ。
彼は音楽によって権力と戦い続けた闘士です。
彼の政府への怒り、不正や腐敗に対する憤りは、彼の強烈な声と激しい政治的メッセージによって国民の心を揺さぶり、その声は世界にも届きました。
フェラ・クティの音楽を聴くと、音楽というものの「力」を感じさせられます。
音楽は詩や文章よりも人々に直接的に喚起する力があるものだと思います。
フェラ・クティの音楽の喚起力は圧倒的です!
フェラ・クティの楽曲はどれも10分以上の長い曲が多く、アルバムにはたいてい2、3曲しか収録されていません。
また、一度音源として収録した楽曲はライブでは二度と演奏することはなかったそうです。
フェラ・クティは亡くなってしまいましたが、その音楽は息子のフェミ・クティ(Femi Kuti)とシェウン・クティ(Seun Kuti)に受け継がれています。
♪アフリカ音楽
https://search-ethnic.com/music/fela-kuti
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