まるで南欧の片田舎の町を歩いているかのよう。
フィリピンで最もスペイン情緒を味わえる町「ビガン」です!
「ビガン」は、首都マニラから約400Km、バスで10時間ほどの所にある小さな町。ラワグからはバスで2時間ほどです。「ビガン」は、世界遺産にも登録された町です。
スペイン風のコロニアルな建物が並ぶ、フィリピン一美しい町「ビガン」(世界遺産)
15世紀半ばから17世紀半ばまでの大航海時代、スペインは世界中に進出し、各地にスペイン風の植民都市を建設しました。
この「ビガン」もそんな町のひとつです。
この町がスペイン風になったのは16世紀後半のこと。17世紀にはイロコス州の中心都市として栄えたそうです。
町は当時の南シナ海交易による、スペイン、中国、ラテンアメリカの影響が見られます。現在の町の人口は5万人ほど。
写真は、町の中心にある「メナ・クリソロゴ通り」(Mena Crisologo)です。
通りは石畳が敷き詰められ、両脇にはスペイン風のコロニアルな建物が建ち並び、カレッサと呼ばれる馬車が走ります。建物は、ホテルやレストラン、土産物屋や雑貨店など。
「メナ・クリソロゴ通り」は車が入れなくなっています。
客引きもまったくおらず、人通りもそれほど多くないので、のんびりと散歩することができます。
この町がいちばん美しいのは、夕方から夜にかけて。
夕方になると斜めから差し込んでくる夕陽が白い建物をオレンジ色に照らし、夜になると建物に吊り下げられた街灯が界隈を黄金色に輝かせます。
ビガンの良いところは、観光客の数が少ないこと。
アクセスしづらい場所にあるせいかもしれません。通りにはフィリピン人のカップルや家族連れが歩いており、たまに西洋人の老夫婦を見掛けたりします。
けだるい空気感が素敵です。
夜の「メナ・クリソロゴ通り」
夜の「メナ・クリソロゴ通り」
黄色い灯がコロニアル風の建物と石畳を照らし出しています。
ロマンチックな風景ですね!
夜の通りでは、子供たちのはしゃぐ声が方々から聴こえてきます。
日中はとても暑いビガン。
夜になるといくぶん涼しくなり、人々の往来も活発になります。
通りを往復するカレッサの蹄の音がパカパカと響きます。
フィリピン料理の夕食
夕食は、「メナ・クリソロゴ通り」の入り口にある「カフェ・レオナ」
フィリピンのビールである「サンミゲル」と、魚介類が入った酸味のあるスープ「シニガン」、豚のひき肉とガーリックとオニオンを炒めた料理「シング」をいただきました!
合わせて675ペソ(1,350円)
味は、「シニガン」は、酸味と塩味と魚の出汁が効いている日本にもあうお味のスープ、「シング」は、少し甘い味付けであまり好みではなかったです。
夜のブルゴス広場
ブルゴス広場はビガンの町の中心。
広場前には、聖ポール大聖堂があり、周囲には市庁舎や州庁舎、銀行や観光案内所があります。
夜の広場はライトアップされ、家族連れやカップルなどが涼んでいました。
広場にはバスケットコートが設置されていて、子供たちがバスケをプレーしていました。
キューバの町では野球場が、アルゼンチンの町ではサッカー場がどこの町にもありましたが、フィリピンではバスケットコートをよく見掛けます。
料金はネットのホテル検索サイトで予約して、スタンダードルームが8,000円ほど。
シャワー、トイレ、朝食付きです。
外観やロビー、お部屋はコロニアルなスタイルで雰囲気あります。歴史地区にも歩いてすぐなので、立地もいいです。
けれども、お部屋は少し古びていて、設備はイマイチ。
コスパはあまり良くないかな。
朝の「メナ・クリソロゴ通り」
朝の「メナ・クリソロゴ通り」です。
ビガンにある建物は、「バハイ・ナ・バト」と言われる石造と木造をミックスさせた独特の建築様式だそうです。
フィリピンの伝統的な建物は、「バハイ・クボ」という高床式のヤシ葺きの建物でしたが、スペイン人が入ってきた時、彼らは石造りの建築物を建てました。
けれども、蒸し暑いフィリピンでは石造りは合いませんでした。
そこで彼らは、1階を石造にして馬車や荷車の置き場として使い、2階を風通しの良い木造にして居住空間として利用する建築物を造るようになったのだとのこと。
また、ビガンの建物には中国の影響も見て取れます。
屋根には中国風の屋根瓦が載せられ、2階の窓には中国風の大きな格子窓が取り付けられています。
窓にはガラスの代わりに貝が嵌められ、明かり取りの役割を持たせています。
この「バハイ・ナ・バト」の街並みは、かつてはフィリピンの各地にあったそうですが、第二次大戦の時に多くが失われ、現在はこのビガンに残るのみだそうです。
日本人にまつわるビガンのエピソード
なぜ、「バハイ・ナ・バト」の街並みが、ビガンのみに残っているかというと、そこには日本人にまつわるこんなエピソードがありました。
太平洋戦争中、日本はビガンの町を占領下に置いていました。
大戦末期、アメリカ軍は日本への攻撃を強め、このビガンも攻撃対象になろうとしていました。
しかし、ビガンへの砲撃は取りやめになります。
日本軍がこの町から撤退したからです。
日本軍にいたナリオカ将校と高橋大尉。彼らはフィリピン人と結婚していました。
彼らは、拠点を守ることよりも、愛する妻とフィリピンの人たちが住むこの街が破壊されないということを選んだのです。
彼らは、地元のクレカンフ司教に撤退する旨を伝え、それを聞いた司教はアメリカ軍に、日本人はもういないから砲撃しないで欲しいと頼みました。
こうして、ビガンの美しい街は戦禍から逃れることができたのです。
このエピソードは、フィリピンでも美談として知られ、映画化もされているそうです。
そんな物語を知りつつこの「メナ・クリソロゴ通り」を歩く。
なんだか感慨深いものがあります。
たくさんの歴史と人々の思いの詰まったビガン歴史地区、魅力的なところです。
旅行時期:2012年12月〜2013年1月
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