ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時代の1992年から1996年にかけて、サラエボの町はセルビア人勢力によって約4年もの間、包囲されました。
その「サラエボ包囲」の最中、12,000人が亡くなり、50,000人が負傷したと言われています。
今回は、「サラエボ包囲」とそれにまつわる史跡や博物館についてご紹介します。
1992年5月2日、セルビア人勢力によるサラエボの完全封鎖が完成
サラエボの街並み
1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナはユーゴスラビアから独立しました。
セルビア人の国家であるユーゴスラビアと、ボスニアに居住するセルビア人勢力は独立に反対。
セルビア人勢力は、ボスニア・ヘルツェゴビナ国内にセルビア人の国家「スルプスカ共和国」を打ち立てることを目的として、首都サラエボを包囲しました。
ボスニア政府の働き掛けにより、ユーゴスラビアは軍の撤退に同意したものの、その兵力が独立を宣言した「スルプスカ共和国」の軍隊としてそのまま残留。
そして、1992年5月2日、セルビア人勢力によるサラエボの完全封鎖が完成したのです。
サラエボの地図
サラエボの町は1992年、セルビア人勢力によって完全封鎖されました。
サラエボは、セルビア人勢力によって町へと続く道路が封鎖され、食料や医療品を運び込むことが出来なくなり、水や電気、暖房システムも遮断されました。
サラエボの住民は、水や食料、医薬品が満足に得られない状況の中、1992年から1996年までの約4年間を過ごすことを余儀なくされました。
丘の斜面に立てられた無数の墓石
セルビア人勢力は町を取り囲む丘の上に陣取り、繰り返し町に砲撃を加えました。
報告によれば、サラエヴォ包囲の期間中、平均して1日当たり329回の砲撃があったとのこと。最も砲撃が多かった日は1993年7月22日の37,777回だそうです。
砲撃により、サラエボの建造物は大きな被害を受け、約35,000棟の建物が完全に破壊されたほか、サラエボ市内の全ての建物が何らかの被害を受けたのだとのこと。
1994年2月5日、68人もの一般市民が虐殺された「マルカレ虐殺」
爆弾が落ち、多くの犠牲者が出たという「マルカレ市場」
セルビア人勢力による砲撃は、無数のサラエボ市民を死に追いやりました。
特に被害が大きかったのが、「マルカレ虐殺」と呼ばれる事件です。
1994年2月5日、サラエボの旧市街のそばにある市場「マルカレ市場」にセルビア人勢力から迫撃砲が撃ち込まれました。
この砲撃によって68人もの一般市民が虐殺され、200人以上が負傷したそうです。
賑わいを取り戻している現在の「マルカレ市場」
この「マルカレ虐殺」を受けて、国際連合はセルビア人勢力に対して、重火器を撤退させるよう求め、それに応じない場合は空爆をすると警告しました。
セルビア側は要求を受け入れ、その時点では一時的に包囲は緩和されたのですが、その後、約2年もの間、サラエボの包囲は解けず、1995年には再びマルカレ市場に砲撃が撃ち込まれ(第二次マルカレ虐殺)、37人が死亡し、90人が負傷するという悲劇が発生。
これを受けて、NATOは本格的に紛争に介入し、1995年10月に停戦が実現することとなるのです。
上の写真は、現在の「マルカレ市場」の様子。
賑やかな町のど真ん中にある市場です。訪問したのは夕方で、お客の数は少なかったですが、豊かな食材が並び、売り子さんがのんびりと店先に佇んでいる様子は、かつてあのような悲劇が起こったとは想像できないほど。
女子供も容赦無く射殺された「スナイパー通り」
「スナイパー通り」
サラエボ包囲の際、セルビア人勢力はサラエボ市民を無差別に虐殺しました。
上の写真は、紛争当時、「スナイパー通り」と呼ばれていたサラエボのメインストリートのひとつ。
当時、サラエボの町の周囲には狙撃兵が歩き回っており、大通りなどでは通りを歩いたり横切ったりすると狙撃兵に狙われ、女子供も容赦無く射殺されたのだとのこと。
また、サラエボ包囲の間、セルビア人勢力は、ボシュニャク人(ムスリム人)を地域から根絶させてしまう意味合いを持つ「民族浄化作戦」を実行していたとされており、ボシュニャク人迫害の加担を拒否したセルビア人を含め、多くの住民が殺害され、女性は強姦されたとされています。
「ホリデー・イン・ホテル」から世界の報道機関が悲惨な現実を伝え続けた。
「ホテル・ホリデー」
「ホテル・ホリデー」のロビー
サラエボ包囲の際、このホテルは報道機関の最前線の基地となりました。
世界中の報道機関が滞在し、ボスニア紛争の悲惨な現実を伝え続けたそうです。
上の写真は、スナイパー通りに面して建つ「ホテル ホリデー(Hotel Holiday)」です。
紛争中、「ホリデー・イン・ホテル」と呼ばれていたこのホテルは、サラエボ包囲の際には報道機関の最前線の基地となり、世界中の報道機関やジャーナリストが滞在し、ボスニア紛争の悲惨な現実を伝え続けました。
サラエボ・トンネル博物館
遠くに見えるサラエボ国際空港
サラエボ包囲の最中、市内に水や食料、医薬品や燃料、そして、武器を運ぶため、国連が管理していたサラエボ国際空港から市内まで密かにトンネルが掘られました。
それが、「サラエボ・トンネル」です。
トンネルの建設は1993年3月1日に秘密裏に始まり、4ヶ月後の6月30日に完成。翌7月1日から使用が始まりました。
トンネルの長さは340mあり、空港の滑走路の下5mの深さまで掘られていました。
このトンネルは、サラエボ市内に物資を供給した他、市外との通信手段として、そして、サラエボ市民の市外への脱出ルートとしても使用されたとのこと。
トンネル博物館の入口
サラエボ・トンネル博物館
サラエボ・トンネルの市外側の入口である民家は、現在「サラエボ・トンネル博物館」として、一般に公開されています。
個人でも訪れることができますが、今回はツアーを利用しました。
トンネルを訪問する「戦争トンネルツアー」は、トリップアドバイザーで事前予約。
10:00から12:00までの2時間のツアーで、料金は2,347円。
待ち合わせ場所はホテル指定で、ガイドさんが迎えにきてくれました。
ツアーとは言うものの参加者は自分たちだけ。ガイドの説明は、英語です、
サラエボのバラ
上の写真は、博物館の一角にあった「サラエボのバラ」と呼ばれる史跡。
この赤いマーキングは、セルビア人勢力による砲弾が落ち、死者が出た地点を表しているのだとのこと。
サラエボ市街にもこの「サラエボのバラ」がいくつもあるそうですが、今回市街を歩いた中では発見することはできませんでした。
トンネルを掘った人たちの写真
現在の旧ユーゴスラビア諸国の領土地図
ユーゴスラビア連邦は6つに分断されました。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時の新聞
博物館の敷地内には、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争やサラエボ包囲について、地図やイラスト、当時の写真や資料などで詳細に解説されています。
当時使われていた用具
サラエボは約4年間包囲されました。
サラエボ・トンネルのルート
紛争前の写真
紛争時代の写真
町は砲撃によって破壊されました。
ガイドさんは、展示されたパネルについていくつか説明してくれました。
モノクロの写真で見ると昔のことのように見えますが、ほんの20年前のことです。
ガイドさんも幼少の頃、サラエボ包囲を経験し、その時の記憶はトラウマになっているのだとのこと。
サラエボ空港のジオラマ
紛争で亡くなった人の名簿
紛争時代に使われた銃
サラエボ包囲を紹介するVTR
こちらは、サラエボ包囲を紹介するVTRが流されていたブース。
15分ほどのVTRでしたが、当時のサラエボの人々の困難な状況が生々しく伝わってきました。
サラエボ・トンネル
こちらが、実際に使われたという「サラエボ・トンネル」です。
トンネルは、シャベルとピックルを使って手作業で掘られ、労働者は8時間交代で24時間休みなく作業が行われたそうです。
◆サラエボ・トンネル博物館
所在地 :BA, 1, Tuneli, Sarajevo 71000 ボスニア・ヘルツェゴビナ
入場時間:9:00~17:00
入場料 :10KM
戦下の子供時代博物館
「戦下の子供時代博物館」の看板
サラエボには、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争やサラエボ包囲について紹介・展示する博物館がいくつかあります。
その中でもユニークな博物館が「戦下の子供時代博物館」です。
この博物館は、戦時下に生きた子供たちに焦点を当てた、世界初の博物館なのです。
「戦下の子供時代博物館」は、サラエボ旧市街バシュチャルシアの北、坂道を10分ほど上がった所にあります。
WAR CHILDHOOD MUSEUM
「戦下の子供時代博物館」
博物館のオープンは2017年1月28日。
設立したのは、若手アーティストの文化と芸術をプロモーションするNGO団体の代表である「ヤスミンコ・ハリロビッチ」さん。
ハリロビッチさんは、2010年、ボスニア紛争当時に子供だった人たちの戦争体験をインターネットで集めるプロジェクト「戦場で育った子どもたち」プロジェクトを始めました。
160文字以内の戦争体験談をネットで募集したところ、1,000人もの体験談が集まりました。それらの体験談は『ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992─1995』という本としてまとめられ、日本でも翻訳されて出版されるなど、世界的に大きな話題となりました。
体験談を集める過程で、人々から当時の写真や日記、戦争体験にまつわる品々が数多く集まってきたそうです。
そこで、それらの品々を体験談と共に展示する博物館を作るというアイデアが生まれ、この「戦下の子供時代博物館」が開設されることになったのだとのこと。
館内には戦下の子供たちの品々が3,000点以上も展示されています。
それぞれの人々の戦時中の思い出の品々
それぞれの品々にまつわるメッセージが紹介されています。
心の拠り所となった人形
「戦下の子供時代博物館」の館内には、戦時中に子供だった人たちの思い出の品々が3,000点以上展示され、それぞれの品々にまつわるメッセージが紹介されています。
ハリロビッチさんが、紛争当時に子供だった人たちの戦争体験を集める「戦場で育った子どもたち」プロジェクトを始めた動機は、ボスニア紛争当時、好きだった女の子が殺されたという彼の個人的な体験が出発点となっているのだとのこと。
ハリロビッチさんは当時7歳、亡くなったミレラという女の子は当時11歳でした。
戦時下の子供たちが描いた絵
紛争時の様子が描かれています。
手製の絵本を作ったり
すごろくのようなゲームを作ったり
ボスニア紛争の最中、当時子供だった人々は既に大人になり、私たちと変わらないような日常を送っている人がほとんどです。
けれども、彼らは誰しもが紛争時の辛い思い出や強烈な体験を心の底に抱えているのだそう。
戦時下に子供時代を過ごしたひとりとして、ハリロビッチさんはそんな戦時下で生きた子供たちの体験を世の中に伝えたいと考えたのです。
ブランコ?
ギターとか、ダンボールで作った防弾チョッキとか
戦争体験談の募集は、インターネット上で、戦争中のサラエボで幼少期を過ごしたことのある人々に向けて呼び掛けられました。
「子どものあなたにとって戦争とはなんでしたか」という質問に、短い回想文で答えて欲しいと呼び掛けたのです。
回想文は1,500件以上集まり、そのうちの約1,000のメッセージが『ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992─1995』という本に収録されています。
そのメッセージのうち、印象に残ったいくつかをご紹介します。
地下室で、電動バリカンで髪を切り、カードじゃなくて爆弾の破片を交換していた……(アリヤ:男性:1981生まれ)
かごの鳥を見ると足がすくむ。92年から95年のあいだ、ぼくは自分をそんなふうに感じていたから。(エディン:男性:1983年生まれ)
なぜこんなにピーナッツバターが好きなのか?それがあのころの、たったひとつの甘いものだったから。今でもピーナッツバターのにおいと味は、私に勇気をくれるのよ。(ジェナ:女性:1981年生まれ)
スナイパーが銃撃してきたとき、おかあさんが私をバスの床に押し倒し、上に覆いかぶさって守ってくれた。(ナイダ:女性:1989年生まれ)
戦争と聞いてまず思い出すのは、地下室で友だちと過ごした時間だ。なんてたのしかったんだろう──あれ以上たのしいことを私たちは知らなかった。(アムラ:女性:1978年生まれ)
戦争のなかで子どもでいることなんてできない。不幸にも私たちは一夜にして成長し、大人と同じ心配をした……(エルディーナ:女性:1980年生まれ)
イカール缶詰は奇跡!猫ですら食べようとしないのに、私たちは仔牛のデミグラスソース煮を食べるみたいに幸福だった。(レイラ:女性:1978年生まれ)
スナイパーがねらっている通りを、友だちが走って渡ろうとしてたんだ。母親は髪を逆立てて見守っている。それを見てる2人の男が賭けをしていたんだ。彼が生き残れるかどうか。(マヒル:男性:1978年生まれ)
やつらは私たちから自由を奪った……でも私たちから無邪気な笑顔を奪うことはできなかった^_^(レイラ:女性:1981年生まれ)
地獄のなかのちっぽけな天国!砂漠のなかの水一滴!そこらじゅうにばらまかれた悪意と憎悪の種に対する、海ほどの愛!(アドミール:男性:1985年生まれ)
by『ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992─1995』集英社
サラエボ包囲時に国連軍から持ち込まれた食料品の数々
トンネルによってたくさんの物品が持ち込まれました。
不味いと評判だったイカール缶詰め
戦争の悲劇を紹介する博物館は世界に無数にありますが、戦時下を生きた人々(それも子どもたちの)の記憶や体験を紹介する博物館は世界でも初めてです。
子どもたちの回想文には、恐怖や悲しみ、ショック、空腹や寒さなどのネガティブな記憶が多く書かれていますが、その中でも、初恋をしたり、遊びを楽しんだり、運よく食べられたチョコレートに喜んだり、などといったポジティブな記憶を書いている人が多いことが印象的でした。
「戦下の子供時代博物館」で紹介されている子どもたちの回想文と、それにまつわる展示品は、普通の戦争博物館で見るようなショッキングな戦争写真や映像などよりも、遥かに生々しく、戦時下に生きるということを実感することができました。
「戦下の子供時代博物館」、サラエボに訪問したら、ぜひ訪れて欲しい博物館です。和訳されている本『ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992─1995』も一読してみることをオススメします。
◆戦下の子供時代博物館(War Childhood Museum)
所在地 :30-32, Logavina, Sarajevo, ボスニア・ヘルツェゴビナ
入場時間:11:00~19:00
入場料 :10KM
サラエボの街並み
上の写真は、サラエボの街を一望できる丘「The Yellow Fortress(Žuta tabija)」から眺めたサラエボ旧市街の風景です。
ボスニア・ヘルツェゴビナは、紛争後の現在でも、ボシュニャク人とクロアチア人が多く住む「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」とセルビア人が多数派の「スルプスカ共和国」の2つの構成国に国が分断されています。
サラエボの町も2つの構成体に分かれていて、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の首都であるサラエボに隣接して、スルプスカ共和国の首都イストチノ・サラエボがあります。
分断されたボスニア・ヘルツェゴビナ
3つの民族(ボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人)の間の不信や対立の解消は難しく、国は、いつ衝突が起こってもおかしくない微妙なバランスの上に成り立っているのだとのこと。
サラエボ新市街の夜
サラエボ新市街の夜。
日本の街と変わらない、ショーウィンドウが並ぶ歩行者天国のストリートですが、ほんの20年前、ここは戦場でした。
現在、普通に現代的な生活を過ごしている30代の青年が、10代の頃、この場所で死と隣り合わせの暮らしを送っていたのです。
そして、今現在でも世界中の様々な地域で、1992年から1996年までのサラエボの子どもたちのような、戦時下で生きる子どもたちが無数に存在していることを忘れてはいけません。
サラエボMAP
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