ベトナム中部にある「ホイアン」
「ホイアン」は、16世紀から17世紀にかけて、ポルトガル人、オランダ人、中国人、日本人が来航し国際貿易港として繁栄した古い港町。街並みは世界遺産にも登録されています。
今回は、「ホイアン」についてご紹介します。
ホイアンの黄色い街並み。ここには昔、1,000人以上の日本人が暮らしていました。
ホイアンの黄色い街並み
「ホイアン」の街並みです。
町には赤い瓦屋根、黄色い壁の家々が建ち並んでいます。
静かなホイアンの街並み
眩しい陽光に照らされた通りはとても静か。こぢんまりとしていて落ち着いた風情を持つ町です。
ここホイアンは、世界遺産にも登録されています。
瓦屋根のホイアンの雑貨屋さん
町の雑貨屋さん。この写真は道の向かいにある「海のシルクロード博物館」から撮りました。海のシルクロード博物館では、中継貿易で栄えたホイアンの歴史を知ることができます。
「ホイアン」は、16世紀から17世紀にかけて、海のシルクロードの中継地として栄えました。江戸幕府の貿易禁止令が出されるまでは日本人も数多く来訪し、ホイアンには日本人町が形成されていたのだそう。
ホイアンの交易範囲は日本、中国からインド、そして、遠くアフリカ、ヨーロッパにまで及び、世界中の商人たちが集う国際貿易都市であったのだとのこと。
エジプトのカイロの遺跡からは、当時の日本陶器の破片が発見されているそうです。これは、日本の文物がホイアンを中継してアラビア世界にまで達していたという証です。
「クアンコン廟」
現在のホイアンには中国系の人々が多く居住しており、街中には中国寺院が幾つもあります。
上の写真はその中のひとつ「クアンコン廟」。三国志の関羽を祀った関帝廟です。
参拝の熱気溢れる「クアンコン廟」の内部
豪勢な建物の造り、寺院は人々の参拝の熱気で溢れていました。
現在のベトナムにおける、中国人の影響力の強さが垣間見えます。
「チャンフー77の家」
中国と並び当時の一大勢力だった日本は、今や見る影もありません。
鎖国により大勢が帰国し、とどまった人々も次第にベトナム人や華僑に同化していったのでしょう。
それでも町を歩いていると、当時の日本人が住んでいた家や建造物をあちこちで発見することができます。
そのうちのひとつ、「チャンフー77の家」に入りました。ここは現在、ベトナム人の一家が住んでいる家ですが、400年前の当時、海を渡ってきた日本人が暮らしていたのだそうです。
「チャンフー77の家」は、観光客もお金を払うと自由に家の中を見ることができます。
家の中では、趣のある中庭で老婦人が家仕事をしていました。
「日本人橋」
中国人街と日本人街の境には、町のメインのモニュメントとなっている建造物があります。「日本人橋」です。
「日本人橋」は、美しい屋根つきのアーチ橋で、中には祠があり、お犬様が奉られていました。
田園の中にあるという日本人の墓
ホイアンの田園地帯
ホイアンの町を抜け、しばらく歩いていると一面の田園地帯に出ます。
私は田園の中にあるという日本人の墓を見るため、緑の海を歩いていきました。
農作業をする人々と牛
一面に広がる水田
農作業をする人々
時折吹く風が、一斉に鮮やかな緑の田園を揺らします。まるでビロードの絨毯を敷き詰めたような風景。
所々に農作業をしている人の姿が見えました。編み笠を被った人々が稲に水をやったり、手入れをしたりしています。
ベトナムの豊かな田園風景です。
谷弥次郎兵衛の墓
墓に建てられていた墓碑
しばらく歩き続けると田園の片隅にそれはありました。
谷弥次郎兵衛という碑銘。そして、入り口には解説が書かれています。
ホイアンの日本人町で暮らしていた谷弥次郎兵衛。彼は幕府の貿易禁止令により日本に帰国した。しかし、遠くホイアンに残した恋人に会うため再び出国。その途上倒れたのだという。この墓碑はその昔、日本人とベトナム人が共に暮らし、生きていたことの証である。
そんなことが書かれていました。
水田地帯の池にいたあひるの群れ
私は誰もいない墓の前に腰を降ろしました。
しんと静まり返った風景。美しい緑の田園はそよ風に波打っています。
遠くに編み笠を被り、牛を引く人の姿が見えます。空は抜けるように青く、時折通り過ぎる雲がまぶしい太陽の光を遮っていきます。
墓は静かにそこにありました。
このホイアンの地に昔、日本人が暮らし、働き、恋をし、日々を過ごしていたこと。日本の文物が彼らによって遥か西方まで伝わっていたこと。連綿と続く歴史。いつの世も変わらない人々の思い。
私は緑の波を眺めながら深い感慨にふけり、いつまでもそこに座っていました。
水田と牛
ヒンドゥー教を信仰していたチャンパ王国の遺跡「ミーソン」【世界遺産】
ミーソンの遺跡
「ホイアン」から約40kmの場所にある「ミーソン」の遺跡。
「ミーソン」は、かつてこの地方を支配したチャンパ王国の聖域の跡です。
いくつか残っているレンガ造りの寺院群は、7世紀から13世紀にかけて造られたのだとのこと。
当時、チャンパ王国の人たちは、ヒンドゥー教を信仰していました。遺跡にはシヴァ神の象徴であるリンガ(男根)やナンディ(牡牛)の像があります。
長い間、この地は聖地として人々にとって大事な場所でしたが、ベトナム戦争の爆撃によって多くの伽藍が破壊されてしまったそうです。
草木に囲まれた遺跡群
この「ミーソン」の遺跡の建物は、セメントや漆喰などの接着剤を使った痕跡がないそうです。
また、建物はアーチを用いないで屋根を架ける構造となっていて、当時のチャンパ人の技術力の高さを物語っています。
雰囲気満点のミーソン遺跡
「ミーソン」は、20世紀初頭に、フランス人によって発見されました。
けれども、その後盗掘に逢い、多くの美術品が失われたそうです。そして、ベトナム戦争の時、アメリカ軍がゲリラのアジトを掃討という名目でミーソン遺跡を爆撃したため、遺跡は破壊されました。
倒壊した建物の柱
旅行者はツアーで訪れる
「ミーソン聖域」を訪れるには、ツアーに参加するのが一般的です。
ホイアンの町には、ミーソンへの半日ツアーを募集している旅行社がたくさんあります。
たいていミニバスを利用し、8時出発、14時頃ホイアンに帰着。
ホイアンからミーソンまでは約1時間半ほど。現地では2時間ほど遺跡を見学できます。
ツアー料金は、16万ドン(約800円)くらいから。遺跡の入域料はツアー料金とは別で10万ドン(約500円)です。
遺跡にいたトカゲ
静かなミーソンの遺跡。
暑い日差しを浴びながら、レンガの遺跡の中を歩いていると、トカゲがひょっこりと顔を出したりします。
空からは南国の鳥のさえずりが聴こえてきます。
かつて繁栄したチャンパ王国の姿を想像しながら、過ごす静かなひととき。
ホイアンに来たら、ぜひ立ち寄りたい遺跡です。
「ミーソン聖域」は、世界遺産にも登録されています。
旅行時期:2003年2月
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