ペルーの首都「リマ」
朝、宿のあるミラ・フローレスから「コレクティーボ」に乗り、リマの中心、旧市街「セントロ」を目指します。
「コレクティーボ」とはワンボックスを使った乗り合いタクシーのこと。10人から20人乗りで、正面の窓ガラスには大きく行き先が掲げられています。
黄色の建物が並ぶ、リマのセントロ「マヨール広場(旧アルマス広場)」へ
リマ、セントロ界隈の青い建物
リマの街にはこのコレクティーボが驚くほどたくさん走っています。特にミラ・フローレスからセントロへの道、アレキパ通りでは走っている車の半分以上がコレクティーボではないかと思えるほどでした。
セントロまでは約30分、料金は1s/.(ソル)、35円です。
リマ、セントロ界隈の黄色い建物
「リマ」の人口は、1,035万人。南米有数の世界都市で、植民地時代に建てられた建物が多く残る旧市街の「セントロ地区」は、世界遺産に登録されています。
太平洋岸に位置し、ペルー海流の影響で気温は比較的低く、冬は毎日濃霧が立ち込めるなど湿度は100%近くになりますが、雨は稀で、エジプトのカイロよりも降水量が少ないとのこと。
紀元3世紀頃から、原住のインディヘナの集落があり、インカ時代には太陽神殿が造られるなど、宗教的中心地のひとつとして発展。現在の町の原型が出来たのは、16世紀半ば。スペインの征服以降のこと。
1542年に「リマ」は、ペルー副王領の首都に指定され、アメリカ大陸におけるスペイン植民地支配の中心地となりました。
リマ、セントロのピンク色の建物
私の乗ったコレクティーボは、アレキパ通りをゆっくりと走っていきました。
客引きが、窓から身を乗り出しながら、歩道の上で立ち止まっていたり、歩いていたりする人々に向かって「セントロ、セントロ!」 と、大声で呼びかけています。
人々はセーターを着てジャケットを羽織っています。
6月下旬、晩秋のリマはどんよりと曇り、肌寒い気候。街全体が暗く沈みこんでいるような雰囲気でした。
リマ、セントロの「マヨール広場(旧アルマス広場)」
リマの旧市街「セントロ」は、雑然とした都会でした。
碁盤目状に区画された通りには、車やバスがひっきりなしに行き交い、建ち並ぶビルの隙間を人々が足早に歩いていきます。
セントロは、リマでも最も治安が悪いといわれている地域です。犯罪の多発する夜間と違い、昼間は比較的安全であるらしいのですが、ここは注意するに越したことはありません。
私は荷物をしっかりと握り締め、ほぼ20秒おきに後ろを振り返りながら、セントロの中心、「マヨール広場(旧アルマス広場)」へと歩いていきました。
「マヨール広場(旧アルマス広場)」
「マヨール広場(旧アルマス広場)」。子どもたちが引率されてます。
「マヨール広場(旧アルマス広場)」に近づくにつれ、界隈の建物が徐々に黄色や水色、ピンクといったパステルカラーのカラフルな色に変わり始めてきます。
2階には凝った装飾の施された木製の出窓があります。コロニアル様式の建築群です。
しばらく歩いていくと広い空間が見えてきました。
パームツリーが建ち並ぶ中庭、綺麗に整備された花壇には赤や黄色の花が咲き乱れています。その周りには、豪華なコロニアル建築群が建ち並んでいます。
建物の色は全てが目に鮮やかな黄色!
ここが、1553年に造られたコンキスタ(征服)の中心、リマの「マヨール広場(旧アルマス広場)」です!
1553年、スペイン人ピサロは、インカ帝国を滅ぼし、リマを首府に定めました。
「マヨール広場(旧アルマス広場)」のカテドラル
「マヨール広場(旧アルマス広場)」の正面に堂々と聳える建物「カテドラル」
私は、その中へと入っていきました。薄暗い内部、正面には金箔や銀箔で彩られた豪華な祭壇が置かれています。
入ってすぐ右手の部屋にはガラスケースに収められたミイラが安置されていました。インカ帝国を滅ぼしたスペイン人の征服者、「フランシスコ・ピサロ」の遺体です。
この「カテドラル」の礎石は彼自身の手によって置かれたといわれています。
カテドラル
南米のどこかにあるといわれたエルドラド(黄金郷)を求め、ピサロはこの地にやって来ました。
文明と文明の出会いは幸福よりも、むしろ不幸な出来事を生み出すことの方が多いものですが、スペインとインカの出会いほど悲惨な結果をもたらしたものは、なかなか見当たらないでしょう。
ピサロは、インカ皇帝アタワルパを奸計を用いて捕らえ、そして、処刑しました。
インカ人たちは、神の子である皇帝を殺されてしまうと、もう成す術はありませんでした。
アンデス全域を支配下に置いていたインカ帝国は、たった二百数十人のスペイン人により、あっさりと滅ぼされてしまったのです。
スペイン人たちはキリストという神の名のもとで、インカの神像や神殿を壊し、黄金を略奪しました。
そして、人々にキリスト教の信仰を強制しました。
こうして、長い歴史と繁栄を誇った1つの文明が滅んだのです。
カテドラル前の石段
カテドラルでは朝のミサが行われていました。
今日が日曜でないためなのでしょうか。参加している人の数はあまり多くはありませんでした。
祭壇の前に立った神父が祈りの言葉を呟いています。それに人々が静かに唱和しているのが見えます。
私は後ろの方の席に座り、その様子をぼんやりと眺めました。
すると、そんなぼんやりを見咎めた係員がこちらへと近づいてきて、目の前に立つと、懐から緑色の冊子を取り出して私に差し出し、前の方の席を指差しました。
ミサに参加しろということのようです。
私は係員に従い、人々が座っている辺りまで移動し、腰を降ろしました。
カテドラルの身廊
手渡された冊子を開くと、すぐに隣の人が開くべきページを教えてくれました。
開いたページには、スペイン語で祈りの文句や賛美歌の歌詞らしき文句が書かれていました。
「ハレルヤ、ハレルヤ♪」
人々の美しい歌声が響き渡っています。私も読めるところだけ一緒に唱和し、祈りに包まれた堂内の空気に身を委ねます。
私はキリスト教徒ではないけれども、その祈りと歌声とこの堂内の雰囲気は、なんだかとても懐かしく感じられました。
暖かい繭のような「カテドラル」の雰囲気。私は歌声を聴きながら、こくりこくりとなり、もう少しで眠ってしまうところでした。
サン・フランシスコ教会
「マヨール広場(旧アルマス広場)」から東へ少し進んだところに、「サン・フランシスコ教会」があります。
この教会は、先ほどの「カテドラル」よりも庶民的な教会です。
内部は信者たちの熱気に溢れており、たくさんの人々が祈りを捧げていました。
恍惚とした表情で聖書の文句を呟いている老婆、跪き黙想をしているヒゲ面の男性、小さい子供を抱えながら首を垂れているおばちゃん。
人々はみな真剣に祈り、十字を切っていました。
子供たちにキリストの物語を聞かせる先生
ペルーの国民の約95%は、キリスト教(ローマ・カトリック)を信仰しています。
スペイン人によって強制されたキリスト教ではありますが、ヨーロッパ系の人々はもちろんのこと、人口の約32%を占めるメスティソ(先住民とスペイン人の混血)も、約52%を占めるインディヘナ(先住民)も、現在では熱心にキリスト教を信仰しています。
スペインの侵略から450年の時を経た現在、かつて侵略者の宗教であったキリスト教は、ペルーの人々にとって最も大切なものへと成り変っています。
今を生きるペルーのインディヘナにとっては、イエス・キリストこそが神なのです。
歴史によって奪い取られたもの、歴史によって生み出されたもの。 人々のアイデンティティ、信仰。
心から祈りを捧げているペルーの人々を見ながら、私はしばし考え込んでしまいました。
旅行時期:2003年6月
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