ダブリンからバスで約3時間。
アイルランド南東部、ティぺラリー州の緑の平原地帯のただなかに灰色の城塞が聳え立っています。
「ロック・オブ・キャシェル」(Rock of Cashel)です。
当日は小雨がぱらつく肌寒い日和でした。
小雨のぱらつく中、灰色の居城を散策
「ロック・オブ・キャシェル」の威容
「ロック・オブ・キャシェル」は、この地域を支配したマンスター王国(370~1101)の王の居城であった場所であり、マンスターにおけるキリスト教の中心地でもあった場所でした。
12世紀中頃には、アイルランドの4司教座のひとつとして、ローマ教皇にも公認されたのだそうです。
石造りの城館といくつもの墓碑
緑の芝の上にハイクロスの墓地が並びます。
標高約67メートルの岩山の上には、大聖堂や礼拝堂、円塔やハイクロスの並ぶ墓地などが密集して建っています。
麓の街から眺め見るその姿は、まさに「威容」という表現がぴったり!
現在残っている建物の創建は12~13世紀であると言われています。
大聖堂の跡
床に置かれた墓石
城跡と城館
ケルト十字
聖パトリックとケルト十字
ケルト十字のハイクロス
このお城の創建には、ある伝説があります。
魔王が大きな大岩をくわえてキャシェルの上空を飛んでいた時、「聖パトリック」が教会を造ろうとしている姿が目に入りました。
それにびっくりした魔王は大岩を落としてしまい、それが「ロック・オブ・キャシェル」となったというのです。
※「聖パトリック」(387年~461年)は、アイルランドの守護聖人。アイルランドにキリスト教を布教した第一人者で、彼の布教はアイルランド土着のドルイド教からキリスト教への改宗を促すというのではなく、ドルイド教の信仰を認めつつ、それと融和させながらキリスト教を布教させていくというものでした。
ケルト十字に刻まれた組紐文様
広大な風景の中にケルト十字が
たくさんあるケルト十字
雨に濡れるケルト十字の墓
城の敷地内には、墓地があり「ケルト十字」がたくさん立っています。
ケルト十字は、ラテン十字と十字の交差部分を囲む環からなる十字で、ケルト系キリスト教のシンボルともなっているものです。
アイルランドでは、ケルト十字は「聖パトリック」により創られたとされています。
Wikipediaには以下の記述がありました。
アイルランドでは、聖パトリックが異教のアイルランド人を改宗させる際にこのケルト十字を創った、という伝説が広く信じられている。彼はキリスト教のシンボルであるラテン十字と太陽のシンボルである円環を組み合わせたとされる。これは太陽の生命の源としての属性を十字と結びつけることで、十字の重要性を異教の信者に伝えるためである。
ケルト十字 – Wikipedia
アイルランドのケルト十字には、写真にあるような渦巻き、組み紐文様のほかに、聖書の説話が彫られた十字が数多く残されています。
ケルト十字は、墓標としての役目だけでなく、中世ロマネスク・ゴシック教会のステンドグラスと同様、人々にキリスト教の説話を伝える役割も担っていました。
当時はまだ印刷技術がないため人々は聖書を見たことがなく、また、文盲の人が多かったのでお話や絵でしか物語を知る術がなかったのです。
円塔と「ホア・アビー」
聳え立つ円塔
巨大な円塔が聳え立っています。高さは約27メートル。
入口は高さ3メートルの所にあるため、簡単には入れません。
アイルランドの修道院の多くには、このような円塔が聳え立っています。
これは、当時来襲していたヴァイキングからの避難所、また、見張り塔として造られたのだと考えられています。
ケルト十字同様、この円塔もアイルランド独特のものです。
向こうに見えるのは「ホア・アビー」
広々とした風景が広がっています。
聖母マリアの像とケルト十字
城の裏手の牧草地の中には、「ホア・アビー」というシトー派修道院の廃墟があります。
12世紀にローマ・カトリック化したアイルランドですが、以後、大陸からフランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチヌス会、カルメル会など多くの会派が来島し、各地に修道院を建立していきました。
シトー派は、そのうちのひとつ。
シトー派は、厳格な規律に従って人里離れた辺境の地に修道院を建て厳しい修行を行なった会派です。
しかし、1534年、イギリスの教会がローマと対立して英国国教会を設立すると、当時イギリスの実質的な支配を受けていたアイルランドもそれに従わざるを得なくなり、アイルランドでのカトリック信仰は禁止されてしまいます。
それと共に、修道院も解散させられ、土地や財産は没収されてしまいました。
城を囲む城壁
ロック・オブ・キャシェルの廃墟
以後、アイルランド・カトリックの中心地のひとつであったこの城は廃墟となっていきます。
そして、英国国教会支配から解放された現在では、ここ「キャシェル」は、カトリックの聖地のひとつともなっているのです。
旅行時期:2003年4月
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