リトアニア(Lietuva)の首都「ビリニュス(Vilnius)」街歩き。
朝から、「ハレス市場」や「夜明けの門」「大聖堂」、「ゲティミナスの塔」「ビリニュス大学」「ウジュピス共和国」「聖ベルナルディン教会」などを観光して周りました。
午後4時頃、ちょっと疲れたのでホテルに戻ってひと休み。
❶City Hotels Rūdninkai (シティホテルズ ルドニンカイ)
City Hotels Rūdninkai (シティホテルズ ルドニンカイ)
ホテルで2時間ほど仮眠した後、夕食がてら、再びビリニュス旧市街へと繰り出します。
宿泊していたホテル『City Hotels Rūdninkai (シティホテルズ ルドニンカイ)』は、ビリニュス旧市街の南側にあります。
ホテルを出て、一旦町の中心である「カテドゥロス広場」へと向かうことにしました。
気球がたくさん飛んでいました。
ホテルの部屋の窓からも見えたのですが、空に気球がたくさん飛んでいました。
気球に乗って空から世界遺産のビリニュスの街を眺めるツアーがあるようです。
ユダヤ教のシナゴーグ
ホテルの近くの通り沿いに、ユダヤ教のシナゴーグがありました。
ビリニュスは18世紀末以降、多くのユダヤ人が暮らしていたことで知られています。
1930年代後半には町の総人口の4分の1をユダヤ人が占め(約5万7,000人)、ビリニュスは「リトアニアのエルサレム」とも言われていたそうです。
1940年代初頭、そんなビリニュスのユダヤ人社会を悲劇が襲います。
ナチス・ドイツによる「ホロコースト」です。
1941年、ビリニュスはナチス・ドイツの占領下に置かれます。
ナチス・ドイツはビリニュスのユダヤ人を大量虐殺し、生き残ったユダヤ人たちをゲットー(ビリニュス・ゲットー)に収容して隔離しました。
ナチス・ドイツ占領下のリトアニア(1941〜1944)において、20万8000人から21万人いたリトアニア・ユダヤ人のうち19万5000人から19万6000人が犠牲となり、そのほとんどが1941年6月から12月のあいだに殺害されたと言われています。
1944年7月13日。ソ連軍がドイツを駆逐し、ビリニュスを占領します。
その時点で、ビリニュス周辺に隠れて生存していたユダヤ人はたった2,500人だけだったそうです。
ちなみに、現在のビリニュスのユダヤ人人口は、およそ2,700人ほど(人口の0.5%)であるとのこと。
ピーリモ通り沿いの建物
旧市街の西側を縦断するバス通り「ピーリモ通り」を北へ。
目的地である「カテドゥロス広場」は旧市街の北側にあり、ホテルからは1.5㎞ほどの距離。
ちょっと遠いのでバスに乗ることにしました。
ビリニュスのトロリーバス
こちら、ビリニュスのトロリーバス。
クラシックな色と形がいい感じ。料金は1€でした。
「クディルコス広場」
トロリーバスは15分ほどで、新市街のメインストリート「ゲディミノ大通り」に面した「クディルコス広場」に到着。
ここでトロリーバスを降り、「ゲディミノ大通り」を東へと向かいます。
「ゲディミノ大通り」
「ゲディミノ大通り」は、銀行やブティック、ホテルなどが立ち並ぶ並木通りで、ヨーロッパ的な雰囲気を漂わせています。
訪問した時は、ヨーロッパ料理のフードフェスティバルが開催されていて、道は歩行者天国になっていました。
ヨーロッパ各国料理のフードフェスが開かれていました。
フードフェスの屋台料理
チュロスが山盛り
美味しそうなハンバーグ
「ゲディミノ大通り」沿いにあった不思議な彫像のあるお店
「ゲディミノ大通り」に並んでいたヨーロッパフードフェスの屋台料理、かなり美味しそうで魅力的だったのですが、ディナーで訪問するお店は決めていたので、ここは我慢することに。
しばらく「ゲディミノ大通り」を東に歩いていくと、大聖堂のある「カテドゥロス広場」が見えてきます。
❷Stebuklas(奇蹟)の敷石
「大聖堂(アルキカテドゥラ)」
「大聖堂(アルキカテドゥラ)」は、ビリニュスの中心に位置し、ビリニュスのシンボルになっている主教座教会です。
ギリシャ神殿風のクラシック様式の建物は18世紀の創建。
高さ53mの鐘塔の下層部分は13世紀の城壁の一部で、ヴィリニュスで最も古い建造物の一つであるとのこと。
Stebuklas(奇蹟)の敷石
この「大聖堂」の鐘塔の近くの地面に、「STEEBUKLAS(奇蹟)」と書かれた一枚の敷石があります。
1989年8月23日、ソビエト連邦の統治下にあったバルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)で、「バルトの道」と呼ばれるデモ運動が行われました。
「バルトの道」は、バルト三国の200万人の人が手を繋いだ「人間の鎖」。この「STEEBUKLAS(奇蹟)」と書かれた敷石は、その起点となる場所を示したものです。
Stebuklas(奇蹟)の敷石
バルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)は、1944年のソビエト連邦への併合後以降、40年以上ソ連の統治下にありました。
折しも1980年代の後半、旧ソ連ではゴルバチョフ政権による改革運動「ペレストロイカ」「グラスノスチ」が進められ、バルト三国でも独立・解放の機運が高まってきていました。
しかしながら、ソ連は三国の独立を認めず、独立運動は当局による弾圧や締め付けに抑えられていました。
そんな最中、この運動は企画され、実行されました。
バルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)の住民約200万人が参加して手を繋ぎ、三共和国を結んで、約600kmにも及ぶ人間の鎖を形成したのです。
バルト三国が共通の歴史的運命を共有していることを国際社会に訴えるために行われた、この「バルトの道」のデモンストレーションは、国際的に大きな反響を呼び、1990年代初頭にバルト三国が相次いで独立を果たす引き金になったのです。
今は歩いている人も誰も目に止めないこの敷石ですが、リトアニア、そして、バルト三国の人々にとっては、とても重要な記念碑なのです。
旧市街のメインストリート「ピリエス通り」
「STEEBUKLAS(奇蹟)」を見た後、「カテドゥロス広場」から旧市街のメインストリート「ピリエス通り」に向かいます。
アイスクリーム売りのお姉さん
「ピリエス通り」沿いのスイーツ屋さん
「ピリエス通り」に入ってすぐの左手に、この日のディナーをいただく予定のお店「フォルト・ドゥヴァーラス」があります。
❸フォルト・ドゥヴァーラス
「フォルト・ドゥヴァーラス」の入り口
リトアニア・ビリニュス旧市街、大聖堂からすぐのところにあるリトアニア郷土料理が食べられるお店『フォルト・ドゥヴァーラス(Forto Dvaras)』。
18世紀の修道院の建物を利用した店内は、洞窟のような雰囲気。
リトアニアの代表的な郷土料理「ツェペリナイ」が、13種類も揃っています。
「フォルト・ドゥヴァーラス」の洞窟風の店内
中世の雰囲気満点です!
地下は、壁や天井がレンガ造りになっていて、こちらの壁にも独創的な絵が描かれています。
奥まった部屋では、大人数のグループのお客さんで賑わっていました。
「フォルト・ドゥヴァーラス」の店内とスタッフたち
中央には、バーカウンターが。
赤いチェックのスカートの制服がカワイイです。
パンに入ったマッシュルームクリームスープがインパクト大!
◆Creamy wild mushroom soup served in a bread loaf bowl 3.75ユーロ
黒パンをくり抜いた中にクリーミーマッシュルームスープが入っています。
これは、ガイドブックで見ていて、食べたいと思っていたもの。
パンで蓋をした形で出て来ました。
容器になっている黒パンをちぎり、スープに浸していただきます。パンは、結構固くて酸味が強い感じ。
スープで若干柔らかくなっているものの、ギュっと密度の濃い固いパンなので、少し食べただけで、お腹にたまります。
リトアニア料理を代表するジャガイモのお団子「ツェペリナイ」、サーモンのステーキ
◆Zeppelins(Traditional with meat) 4.55ユーロ
ツェペリナイ(トラディショナルミート) サワークリーム添え
リトアニアの伝統的な料理 ”ツェペリナイ”。
こちらのお店では、13種類ものツェペリナイがあります。
”ツェペリナイ” は、ドイツの飛行船 ”ツェッペリン号” に由来しているそうです。
◆The MANOR salmon steake 9.95ユーロ
サーモンのステーキ マッシュポテトとハーブバターとサラダ添え。
バルト三国や北欧でよく食べられているサーモン。スーパーや市場では、たくさんのサーモンが売られています。
そんなサーモン料理は、もちろん美味!
マッシュポテトと一緒に食べると、これまた美味しさがアップします♪
リトアニアの名物料理がたくさんいただけて、お値段もお手頃。
雰囲気も良く、オススメのお店です★
「フォルト・ドゥヴァーラス」の記事はこちら↓
❹杉原千畝の碑
夜の大聖堂
「フォルト・ドゥヴァーラス」で美味しいリトアニア料理を堪能した後、再び「カテドゥロス広場」へ。
既に時間は夜の9時過ぎ。辺りは真っ暗になっていて、 大聖堂も美しくライトアップされていました。
美しくライトアップされています。
「カテドゥロス広場」から「ゲディミノ大通り」を西へ歩いて、先ほどトロリーバスを降りた「クディルコス広場」へ。
右折して「ピーリモ通り」を北へ進みます。
ビリニュスの町を東西に貫く川「ネリス川」を渡り西へ。
この辺りはビリニュス新市街の中心部。近代的な高層ビルが林立し交通量も多いところです。
ネリス川北にある桜がたくさん植えられた公園
川沿いをしばらく進んでいくと、青々とした芝生が広がる緑地帯が現れます。
まだ7分咲きですが、桜の木もたくさん植えられていました。
ここは、通称「杉原桜公園」と呼ばれている公園。
日本のシンドラーと呼ばれ、多くのユダヤ人を救ったことで知られる外交官「杉原千畝」を記念して作られた公園です。
公園の入り口に「杉原千畝の碑」があります。
公園の入り口には「杉原千畝の碑」というモニュメントが立っていて、彼の肖像と功績などが書かれています。
「杉原千畝」は、第二次大戦時にリトアニアのカウナス領事館に赴任していた外交官。
当時、リトアニアには、ナチス・ドイツの迫害によりポーランドをはじめとした欧州各地から、多くの難民が逃れてきていました。
杉原は難民たちの窮状に同情し、1940年の7月から8月にかけて、外務省の訓令に反して彼らに大量のビザを発給。
彼の行為により、6,000人の命が救われたのだそうです。
その避難民の多くがユダヤ人系でした。
早稲田大学がこの記念碑の建立と桜の木の植樹を行ないました。
ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながらも、1ヶ月あまりの間寝る間も惜しんで手書きのビザを書き続けた杉原の行為は、戦後世界から賞賛され、イスラエルでは、ホロコーストから自らの命の危険を冒してまでユダヤ人の命を救った非ユダヤ人に与えられる称号「諸国民の中の正義の人」を日本人として唯一受賞。
外務省の訓令に反したせいか、戦後長らく日本の外務省からは冷淡な扱いを受け続けてきましたが、2000年10月10日、杉原の死後14年経って、日本政府からの公式な名誉回復が行われました。
「杉原千畝の碑」
この記念碑と植樹された桜は、2001年10月1日に、杉原の生誕100年を記念して、彼の母校である早稲田大学により設置されたものです。
記念碑にはこのように書かれています。
『故杉原千畝氏は1900年に日本に生まれ、早稲田大学在学中に日本国外務省の留学試験に合格しハルピン学院に学び、その後外交官となった。1940年リトアニア共和国領事代理の時代に、身近に迫る戦争の危機の中にありながら、必死の覚悟と信念を以って、亡命ユダヤ人約6千名に対して、1ヶ月にわたって査証を発給しつづけ、彼らの生命を救った。
これは戦争時における輝かしい人道的行為として歴史に記憶され、永遠に語り継がれるべきものである。ここに早稲田大学は、級友として世界に誇るべき氏の功績を称えて記念碑を建立するとともに、リトアニア共和国との学術交流による友好関係がさらに深まり花咲くことを祈念して桜の木を植樹するものである。
2001年10月2日 早稲田大学』
❺スカイバー
「リエトゥヴァ・ホテル」の最上階が「スカイバー」
「杉原千畝の碑」を見た後、モニュメントの裏手にある「リエトゥヴァ・ホテル」へと向かいます。
このホテルの最上階は「スカイバー」というバーになっていて、バーの窓からはビリニュスの街が一望できるというのです。
「スカイバー」の店内
エレベーターで最上階の22階に上がると、「スカイバー」はありました。
店内は高級感溢れる大人の雰囲気。客層も若者はほとんどおらず、リトアニア紳士淑女の社交の場といった印象でした。
モヒートを注文
お飲み物はモヒートを注文。お代は8€。
お味はまずまず美味しいです。
「スカイバー」のウェイトレスのお姉さん
こちらは、注文&お飲物をサーブしてくれた素敵なお姉さん。
バルト三国では素っ気ない接客の店員さんが多かったのですが、このお姉さんはにこやかでした。
「スカイバー」から眺めるビリニュス旧市街の夜
「スカイバー」の店内
素敵なお姉さんの接客対応、美味しいモヒート、美しいビリニュスの夜景。
バルト三国の旅の締めとして、この上ないひと時となりました★
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