アフリカ東海岸、タンザニアの沖合いのインド洋上にある島「ザンジバル(Zanzibar:زنجبار)」への旅。
ザンジバル島の東海岸にある「パジェ」から島の中心地である「ザンジバルシティ」の「ストーンタウン」に到着。
午前中は、ストーンタウンの旧市街の路地をぶらぶらと散策しました。
午後は、ストーンタウンの名所旧跡を巡り、夜はナイトマーケットでお食事をして、ザンジバル音楽のコンサートを観る予定です★
ストーンタウン奴隷貿易の悲劇を伝える「アングリカン大聖堂(Anglican Church)」
「アングリカン大聖堂(Anglican Church)」
まず最初に訪れたのが、ストーンタウンのランドマークともなっている教会「アングリカン大聖堂(Anglican Church)」です。
この大聖堂がある場所、ここには、かつて、奴隷を売買する奴隷市場が存在していました。
1873年6月6日、イギリスの圧力により奴隷貿易が禁止された後、その跡地に建設されたのが、この「アングリカン大聖堂」
ザンジバルの歴史を象徴する、この島で最も重要な建物のひとつです。
入場料は、11,000シリング(531円)。年中無休、8:00〜18:00まで入場可能です。
敷地内には、大聖堂と奴隷が収容された地下室の跡、奴隷の歴史を展示したミュージアムがあります。
まずは、ザンジバルの奴隷の歴史を知るために、ミュージアムを訪れます。
併設された博物館では、奴隷の歴史がパネルで展示されています。
ミュージアムでは、奴隷貿易で栄えたザンジバルの歴史と世界の奴隷の現状などが、年代ごとに詳細なパネルで展示されています。
7世紀頃からアラブ人は、アフリカに住む黒人を捕らえ、市場で売買する奴隷貿易を行ってきました。
ザンジバルは、東アフリカにおける奴隷貿易の拠点となった所です。
19世紀、東アフリカ沿岸部を支配したオマーン帝国の王「サイイド・サイード」は、ザンジバルを拠点にインド洋交易に乗り出し、多大な利益を上げました。
その繁栄の礎となったのが、黒人奴隷です。
彼らは、アフリカ内陸部で黒人を捕らえ、ザンジバルまで連行し、奴隷として欧米のプランテーションに輸出したのです。
その数は、1,000万人を超えるとも言われています。
ダウ船に大勢の奴隷が押し込まれ、海外へと輸出されました。
黒人奴隷たちは、ダウ船の中にぎゅうぎゅうに押し込まれて海外へと輸出されました。
航海は過酷を極め、航海中に大勢が命を落としたと言われています。
ザンジバルの奴隷貿易がイギリスの圧力によって禁止されたのは1873年のこと。
しかしながら、島の主要産物であるクローブ生産の労働力として、奴隷制自体は1897年まで存続しました。
現在の世界の奴隷の状況
現代社会では、奴隷貿易や奴隷制度は表向きは禁止されていますが、奴隷状態にある人は現在でも数多くいます。
オーストラリアの人権団体「ウォーク・フリー・ファンデーション(Walk Free Foundation)」の報告書「2018 Global Slavery Index」によると、2018年現在、世界で奴隷状態にある人の数は約4,030万人に上るのだとのこと。
その2/3はアジアに存在し、最も多いインドでは約1,800万人が奴隷状態にあるのだとか。
現代の奴隷には、「強制労働」と「強制結婚」による奴隷状態があり、「強制労働」は、さらに民間の強制労働、国家による強制労働、強制的な性的搾取に分類されます。
日本や先進国でも、移民や貧困者を中心に、奴隷同様の労働や性労働、児童労働を強いられている人が少なからず存在するのだとか。
実際に奴隷が押し込まれ、繋がれていた部屋
大聖堂の地下には、奴隷貿易が行われていた当時、黒人奴隷たちが押し込まれ、繋がれていた部屋が残っていました。
部屋は狭く、小さな窓しかなく、足枷として使われていたと思われる鎖などが残されています。
奴隷貿易が禁じられたのは1873年
劣悪な環境下で多くの奴隷が亡くなったのだとのこと。
奴隷が売買される奴隷市場の売り場は、46m×26mの長方形で、ヤシの葉と石に囲まれていたそうです。
市は16時に開かれ、奴隷と買い手の人数はしばしば600人を数えたそうです。
黒人奴隷は、アフリカ大陸全体で毎年数十万人が運ばれましたが、新大陸まで辿り着いた人は1,500万人。途中で亡くなった人はその5倍以上と言われています。
大聖堂前には、鎖に繋がれた5人の奴隷の石像が
スウェーデン人彫刻家クララ・ソルナスの「Memory for the slaves」という作品です。
大聖堂前の中庭には、鎖に繋がれた5人の奴隷の石像のモニュメント、スウェーデンの建築家クララ・ソルナスの作品「Memory of the slaves」があります。
人類史に深く刻まれた黒人奴隷の悲劇の歴史。現在、アメリカや中南米に生きる黒人系の人たちのルーツは、ここにあるのです。
西アフリカ、セネガルのゴレ島の記事↓
「アングリカン大聖堂」は1873年から1880年にかけて建てられました。
モニュメントを眺めた後、目の前に建つ「アングリカン大聖堂」の中に入ることにします。
「アングリカン大聖堂」は、奴隷貿易の悲劇の歴史を塗り替えるべく、1873年から1880年にかけて、奴隷市場の跡地に建てられました。
アングリカン大聖堂の礼拝堂
ヨーロッパ・ゴシック建築とアラブ風建築がミックスされた様式
大聖堂内部は、明るく開放的な雰囲気。
建物は、ヨーロッパ・ゴシック建築とアラブ風建築がミックスされた様式です。
礼拝堂は、600人が座れるようになっており、日曜の6:00〜8:00はスワヒリ語、8:00〜9:30は英語の礼拝が行われるとのこと。
大聖堂の建設者「ビショップ・スティール」の墓
大聖堂内は明るく開放的な雰囲気
奴隷貿易撲滅に従事して亡くなったイギリス人水夫を偲んで作られたステンドグラス
入り口の扉は、見事な彫刻のザンジバルドア
聖堂内には、大聖堂の建設者「ビショップ・スティール」の墓石があったり、奴隷貿易撲滅に従事して亡くなったイギリス人水夫を偲んで作られたステンドグラスがあったり、見事な彫刻の入り口のザンジバルドアがあったり・・・。
ザンジバルシティ市民の台所「ダラジャニ市場(Darajani Bazaar)」
「ダラジャニ市場(Darajani Bazaar)」
アングリカン大聖堂を訪れた後、ザンジバルシティ市民の台所「ダラジャニ市場(Darajani Bazaar)」へと向かいました。
三角形の形をしたストーンタウンの東辺、南北に伸びるメインストリート「クリーク・ロード」沿いの一角に「ダラジャニ市場」はあります。
青果や精肉、鮮魚、スパイスまで、ザンジバルの食卓に登場する食材なら、何でも売られている地元民御用達の市場です。
市場前の広場は野菜や果物の露店がたくさん
お店の売り子も買い物客も男性の姿が多かったです。
鮮魚市場は午後だったせいか、魚の数が少なめ
スパイス売り場
ザンジバルと言えば、スパイス!
インドなどのように器に盛られた色とりどりのスパイス群をイメージしていたのですが、そういうディスプレイはなく、どのお店もスパイスはパックに詰められた状態で売られていました。
ザンジバルシティ市民の台所、「ダラジャニ市場」
びっくりするようなものはありませんでしたが、ザンジバルの人々の日常の暮らしぶりを垣間見ることができます★
ダラジャニ市場(Darajani Bazaar)についてはこちら↓
ストーンタウンの路地を歩く
スパイス倉庫らしき建物。扉はザンジバルドアです。
「ダラジャニ市場」を見た後、ストーンタウンの路地をぶらぶら歩きながら、海沿いへと向かいます。
「ダラジャニ市場」から海沿いにある「フォロダニ公園」まで路地を迷いつつぶらぶら。
地元の人たちの日常の暮らしぶりを眺めながら、サンゴ石で造られた古い街並みを歩くのは楽しいひと時♪
ここはたぶん、小学校か幼稚園。壁に絵が描かれてます。
路地にはカラフルなカンガを纏った女性が歩いています。
ストーンタウンの路地裏風景
ローマ・カトリック教会
こちらは、「ローマ・カトリック教会(Roman Catholic Cathedral)」
マルセイユの岩山に建つノートルダム・ド・ラ・ギャルド寺院の建築家べランジェがロマネスク様式で設計した大聖堂であるとのこと。
聖堂正面には、フランシスコ・ザビエルの像などがあるとのことですが、信者以外は内部に入ることはできません。
路地を歩いているといきなりこの大聖堂が目の前に現れるので、インパクトあります。
木彫りの民芸品を売るお店。路地のお店の前で座っている人多いです。
「マーキュリー・ハウス」
しばらく歩いていくと、車の通る大きな通りにぶつかりました。
「ケニヤッタ・ロード(Kenyatta Road)」です。
この通りの一角にあるのが、イギリスのロックバンド、クイーンのボーカリストである「フレディー・マーキュリー」が生まれた家、「マーキュリー・ハウス(Mercury House)」です。
フレディー・マーキュリーは、1964年に当時イギリス領だったザンジバル島のストーンタウンで生まれました。その生家がここだそうです。
建物は現在もアパートとして使われており、中に入ることはできませんが、建物の窓などには、フレディー・マーキュリーの写真が飾られています。
フォロダニ公園、オールド・アラブ砦、驚嘆の家
フォロダニ公園から海を眺める
「ケニヤッタ・ロード」を北東へと進んでいくと「フォロダニ公園」があります。
「フォロダニ公園」の向こう側は海。海には小さな砂浜と船着場があり、漁船や近海の島々へとアクセスする小舟が並んでおりました。
小舟がたくさん並んでいます。
船着場で泳ぐ青年たち
浜辺には、地元の若者たちがたくさんいて、小舟の周りで水遊び。
海は「パジェ」ほど綺麗ではありませんが、白い砂浜と椰子の木が並ぶ様子は、南国の風情が感じられます。
昼のフォロダニ公園
「フォロダニ公園(Forodhani Park)」です。
近年整備されたこの公園は、緑の木々や芝生が植えられ、ベンチの並ぶ海沿いの遊歩道があるなど、とても気持ちの良い空間で、のんびりと過ごすことができます。
「オールド・アラブ砦」
「フォロダニ公園」から「ミジンガニ・ロード(Mizingani.Rd)」を挟んだ南側には、「オールド・アラブ砦(Old Arab Fort)」があります。
「オールド・アラブ砦」は、1699年、オマーンがポルトガルを追放した後に建設された砦。
その後、19世紀には刑務所として、20世紀半ばにはザンジバルの鉄道駅として使用されました。
中庭を囲む四方の壁と、銃眼が設けられた円形の塔などが残されています。
オールド・アラブ砦の中庭
オールド・アラブ砦の劇場
現在は、半円形の劇場が造られ、入り口部分の四角い建物には観光案内所が、敷地内には土産物屋やカフェバー、レストランなどがオープンしています。
ザンジバル・インターナショナル・フィルム・フェスティバルのメイン会場としても知られているのだとのこと。
「驚嘆の家(The House of Wonder)」
「驚嘆の家(The House of Wonder)」は、ザンジバルのスルタンが1883年に式典用に建てたとされる建物で、英国政府に接収される1911年まで、ここにスルタンが住んでいたのだとのこと。
内部は博物館になっているとのことですが、訪問した時、ちょうど館内が改装工事中で、中に入ることができませんでした。
カフェでパッションフルーツジュースを飲む
ここいらで、ちょっと喉が渇いたのでカフェでひと休みすることに。
「ケニヤッタ・ロード」を南に進んだところにある「ストーンタウン・カフェ(Stone Town Cafe)」でお茶しました♪
注文したのは、パッションフルーツ・ジュース(4,000シリング:193円)
爽やかな酸味と甘みが喉と体を癒します★
ジュースを飲み、ひと息ついたところで、再び町歩き開始!
からゆきさんの家
からゆきさんの家
ケニヤッタ・ロードを左折し、バガハニ・ストリートを東へ少し歩いた右手に、「からゆきさんの家」と呼ばれる建物があります。
「からゆきさん」とは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、東アジアや東南アジアを中心とした海外に渡り、娼婦として働いた日本人女性のこと。
長崎県島原半島、熊本県天草諸島の出身者が多く、農村や漁村の貧しい家庭の娘たちがほとんどでした。
主な渡航先は、シンガポール、中国、香港、フィリピン、ボルネオ、タイ、インドネシアなどで、最も「からゆきさん」の多かったシンガポールでは、1906年当時、100軒の娼館があり、約1,000人の娼婦が働いていたのだとのこと。
アフリカにも「からゆきさん」は渡航し、ケニアや南アフリカ、モザンビーク、マダガスカルなどに足跡を残しており、中でもここザンジバル島には、1895年には28人の日本人女性が娼婦として働いていたそうです。
そんな、ザンジバルの「からゆきさん」が住んでいたのが、上の写真の家です。
からゆきさんがザンジバルに来たのは1894年のこと
「からゆきさん」たちは、この建物に住み、近くにあった「ジャパニーズ・バー」で働き、お客をとっていたのだそう。
19世紀後半当時、ザンジバルはクローブの輸出で景気が良く、「ジャパニーズ・バー」には、世界中からたくさんの船員が訪れていました。
景気の良いザンジバルならたくさんのお金を稼げる。そう考え、彼女たちはわざわざザンジバルまでやって来たようです。
1階は土産物屋になっています。
現在の建物は、1階が土産物屋や雑貨屋になっていて、建物にも通りにも「からゆきさん」たちがいた当時の面影は残されていません。
けれども、100年ちょっと前、ここには異国の地でたくましく生きた「からゆきさん」たちがいたのです。
イスラムの正装をした人々
「からゆきさんの家」を見て、再び路地を歩いていきます。
この日は、ちょうど、イスラムの犠牲祭「イード・アル=アドハー(عيد الأضحى 、Eid ul-Adha)」の日。皆さん、イード(祝祭)の際の正装である白装束を纏っておりました。
ストーンタウンの路地裏界隈
正面に見えるのはローマ・カトリック教会
ストーンタウン路地裏のアートの露店
路地をぶらぶら歩いているうちに、そろそろ夕暮れ時の気配。
一旦、ホテルに戻って少しひと休みしてから、夕食がてら、「フォロダニ公園」のナイト・フード・マーケットへと向かいます。
フード屋台がひしめき合う夜の「フォロダニ公園(Forodhani Gardens Night Food Market)」
「フォロダニ公園」から見た夕暮れの海
再び、ザンジバル市民の憩いの場「フォロダニ公園(Forodhani Park)」へ。
公園の海岸べりには、夕暮れ時、たくさんの地元の人たちが集まって来ていました。
辺りは次第に薄暗くなり、海の上に浮かぶ小舟やクルーズ船に徐々に明かりが灯り始めます。
夕暮れ時、公園には大勢の人々が集まってきます。
海岸べりに腰掛ける地元の人々
海に並ぶ小舟、ダウ船、遠くにはクルーズ船も
夕暮れの「フォロダニ公園」
夕暮れ時、家族揃って「フォロダニ公園」へ
公園の敷地内には、家族連れが大勢集まり、地面に敷物を敷いて和気藹々。
毎晩、家族みんなでここに集まるのでしょうか。
夕方になると軽食の屋台がたくさん現れます。
夜の「フォロダニ公園」のナイト・フード・マーケットです。
フォロダニ公園は、夕暮れになるとたくさんのフード屋台が店を出し、大勢の地元の人たちで賑わいます。
熱気むんむんのその様子は、台湾の夜市やモロッコ・マラケシュのフナ広場のよう。
串焼き屋台が多いです。
熱気むんむんのナイト・マーケット
ザンジバル名物「ザンジバルピザ」の屋台
人の波をかき分け、それぞれの屋台に並ぶお料理を物色します。
お料理は、肉やエビ、タコなどの串焼き屋台、お好み焼きっぽいものや汁物系、バナナを使ったスイーツらしきものなどがありましたが、串焼き屋台が一番多いです。
お料理は、「ザンジバルピザ」と「オロジョ」という軽食をいただきました★
「フォロダニ公園(Forodhani Gardens Night Food Market)」についてはこちら↓
毎日大賑わいのフォロダニ公園
フォロダニ公園の夜のフード屋台、お料理のバリエーションはそれほど多くなく、お値段も街の食堂よりも高めな印象でしたが、他では食べられないようなザンジバルフードをいただくことができます★
ストーンタウンを訪れたら、必ず訪れたい場所のひとつです。
向こうにフェリーターミナルの明かりが見えます。
「フォロダニ公園」で屋台飯をいただき、熱気あるナイトマーケットの雰囲気を楽しんだ後、ザンジバル音楽のコンサートを鑑賞できるという「ダウ・カントリーズ・ミュージック・アカデミー」へと向かいます。
ザンジバル音楽を堪能する in ダウ・カントリーズ・ミュージック・アカデミー
「ダウ・カントリーズ・ミュージック・アカデミー(Dhow Countries Music Academy)」
「ダウ・カントリーズ・ミュージック・アカデミー(Dhow Countries Music Academy)」は、ザンジバルの伝統的な音楽をはじめ、東アフリカ海岸線地帯、アラビア半島、ペルシャ湾、インドなどの“Dhow Country”と呼ばれる地域の音楽を教えている学校です。
このアカデミーでは、週3回(水・木・日曜日の夜20時から)、ライブコンサートを開催していて、旅行者も気軽に音楽を鑑賞することができます。
キルンド・グループ(ザンジバル・ンゴマ)
この日登場したのは、「キルンド・グループ(Kirundo Group)」というグループ。
ドラムのリズムを中心としたタンザニア伝統音楽「ンゴマ(Ngoma)」を演奏するグループです。
ステージは、ノリノリのリズムの曲あり、哀愁を感じさせる曲あり、となかなか楽しませてくれます。
太鼓(ンゴマ)のリズムとグルーブ感が見事!親指ピアノ(カリンバ)の音色もアフリカらしい味があって良かったです。
会場にいた観衆たちは皆、自然と体を揺すぶっておりました♪
ライブコンサートの詳細はこちら(動画もあります)↓
夜のストーンタウンの路地
夜のメインストリート「ケニヤッタ・ロード」
「ダウ・カントリーズ・ミュージック・アカデミー」で音楽を鑑賞した後、夜のストーンタウンをちょっとぶらぶら散歩。
ストーンタウンは、夜も治安は問題なし。女性や子供も普通に路地を歩いており、安心して夜散歩することができます。
世界遺産「ストーンタウン」の夜
夜のストーンタウンの路地裏
雰囲気抜群のストーンタウンの夜
ストーンタウンは夜でも治安に問題はありません。
3階建ての石造りの建物がひしめき合うように建ち、その合間を細い路地が縦横無尽に通っているストーンタウン旧市街。
夜は、街路にオレンジ色の街灯が灯り、石造りの建物を照らし出しています。
さすが、世界遺産に指定された街並み、雰囲気抜群です★
ホテルの屋上から見た夜のオールド・アラブ砦
ザンジバルの旧市街、ストーンタウンの名所旧跡を巡り、世界遺産の路地歩きを楽しんだこの日。
翌日もストーンタウンの路地を散策しつつ、東アフリカの名産品の布「カンガ」を中心に、お土産探しをする予定です★
ストーンタウンMAP
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