デリー1日ツアー
朝10時、ホテルの前に横付けされた白いアンバサダーの傍ら。
私と友人はそこに突っ立っていた。
バクン! 扉が開けられた。
「どうぞ!」
インド人ガイドの声がする。
昨日と同じように、彼は我々をエスコートしてくれた。
デリー1日ツアーが始まったのである!
1日ツアーの代金は510ルピー。
当時(1994年)のレートで2,550円だ。
現地の物価からすると相当に高い料金であるのだが、日本語を話すガイドがついており、2人ということもあるのでこのぐらいは仕方がないのかもしれない。
何より2人とも初めてのインドということで、右も左もわからない状態なのだ。
まず、ガイドしてもらうことにより、このインドという国のおおよその雰囲気を掴む必要があった。
白いアンバサダーはやたらとガソリン臭かった。
「この車大丈夫なのか?」と思うほど臭い。
その匂いを我慢しつつ、我々はガイドに連れられデリーのいろんな所を見て周った。
ちょうどVIPの到着を見ることが出来た「大統領官邸」、広大な敷地がインドのスケールの大きさを感じさせる「インド門」。 臙脂色の重厚な色合いが美しい赤砂岩の城砦「ラール・キラー」、イスラム教徒による祈りの光景を初めて見ることとなったデリー最大のモスク「ジャマー・マスジッド」。
インドの誇り、非暴力不服従運動のマハトマ・ガンディーの墓「ラージ・ガート」、タージ・マハルのモデルともなった美しい廟「フマユーン廟」、奴隷王朝時代の大遺跡「クトゥブ・ミーナール」……。
そんなものを我々はガイドの説明を聞きながらぐるぐると見て周った。
オールドデリー
けれども、我々がこのツアーで得た一番の収穫は、インドの雰囲気を、それも、人々や乗り物や生き物でごった返す、オールドデリーの下町の雰囲気を見ることが出来たということだ。
それは何とも形容しがたい凄まじい光景だった。
我々の白いアンバサダーは、通りを埋め尽くすリキシャや大八車などに掴まり身動きが取れなかった。
うじゃうじゃといる人々は、ゆっくりと走るアンバサダーの中の我々の姿を、まったく躊躇することなくジロジロジロジロと眺める。
否応なしに突き刺さってくる無数のどぎつい視線に我々はタジタジだ。
クラクションが耳を劈くように鳴り響き、わけのわからない叫び声や罵りあう声が至る所から聴こえてくる。物乞いが辺りを彷徨い、得体の知れない格好をした人々がそこかしこをうろつき回っている。
我々はアンバサダーの窓をびっちりと閉め、唖然とした面持ちでその光景を眺め続けていた。
友人が言う。
「俺、この車の外に出られる自信ないんだけど……」
確かに恐ろしい。
この界隈のあまりの混沌ぶりは、まさにそういった「異世界」を求めてインドに来た筈の私をも躊躇させるものがあった。
「チャンドニー・チョウク」へ
翌日、我々はホテルを移った。
ニューデリーの下町、パハール・ガンジ界隈にある安宿「サプナホテル」に投宿したのである。
宿代はシャワートイレ付きのダブルルームで80ルピー(約400円)。日本から予約した1万3千円のジャンパトと比べると大幅なレベルダウンだ。
そして、その日の午後、我々はあの白いアンバサダーの車内から見た恐ろしげな界隈、オールドデリーの「チャンドニー・チョウク界隈」へと、意を決して向かった。
あまり気が進まないといった表情の友人を説得し、インドなるものとの勝負に打って出たのだ。
恐ろしいまでの混沌との対峙。あれを克服しないとインドを歩けない、そう私は思ったのである。
サイクルリキシャの座席から見るオールドデリーの街並みは、アンバサダーの中からとはまた違って見えた。
自分の目線が、立場が、街を歩き回る彼らと近づいたからなのであろうか……。昨日よりずっと親近感を持ってその光景を眺められる。
しかし、やはりその喧騒は凄まじいものだった。
リキシャを降りるとさっそくガイドや客引きや物売りが纏わりついてくる。
我々がよほどうぶな旅行者に見えるのだろうか。しつこく付き纏ってくる。
車道ではリキシャや車や牛などがガチャガチャとひしめき合っており、足を踏まれないように、体をぶつけられないように注意して歩かねばならない。
我々はその混沌とした界隈を夜までうろつき周った。
寺院を見物し、店舗を物色した。 客引きに引っ張られ、物乞いに掴まった。
相当緊張していたのであろう。宿に戻った頃にはくたくたになってしまっていた。
だが、とにかくあの恐ろしげに見えた界隈を無事に歩き回ることが出来たのだ。
克服したとは言わないまでも、とりあえずこれから3週間、インドを歩き回っていく目処が立ったというものだ。
その後、我々はインドを巡った。
ジャイプル、アーグラー、カジュラーホー、バラナシ、そして、カルカッタ(現コルカタ)。
いくつもの遺跡や建造物、風景や動物を見た。様々な出会いや事件、ドラマに出くわした。
いろんなものを食べ、飲んだ。信じられない光景に驚愕し、眼前の事実に深く考えさせられた。
インド病への罹患
帰国前夜、カルカッタの下町、MGロードを歩く2人。
MGロードはデリーのチャンドニー・チョウクを彷彿とさせる猥雑さと喧騒に満ちた通りだ。
リキシャや大八車がガチャガチャと行き交い、目をギラギラとさせた人々が右往左往している。
クラクションや物売りの呼び声の喧しさも相変わらずだ。
しかし、我々はもはやこの雑踏を少しも恐ろしいなどとは思ってはいなかった。
友人が言う。
「最初恐かったけど、もう慣れちゃったな」
インドのどこにでもある普通の雑踏。かつて、あんなに恐ろしいと思えたこの喧騒も今ではむしろ心地よいものだとさえ感じられる。慣れとは不思議なものだ。
私も友人も、ついにインドを克服したのかもしれない、と思った。
インドで受けた衝撃は帰国後も決して忘れられるものではなかった。
友人も再び、私に限って言えば、その後何度もインドを訪れることになるのだ。
兎にも角にも、私が『インド病』に罹患した記念すべき旅(インドという禁断の果実を食べてしまった旅というべきか)。
これが発端だったのである。
旅行時期:1994年2月
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