「イラン」(Iran:ایران)
5000年の歴史を持つイラン。古代ペルシャ帝国時代から現代まで、イランは世界の中心のひとつだった時代が何度もある重要な国。
美術、建築、哲学、思想、詩、音楽、映画などなど、連綿と続く独自の文化がイランにはあります。
世界遺産も17件が登録されていて、いずれも文化遺産。ペルセポリス遺跡やイスファハンのイマーム広場を始め見どころがたくさんあります。
今回は、イランの見どころとイラン事情をご紹介します。
1,222万の人口を持つ首都「テヘラン」
テヘラン「アザディ・タワー」
イランの首都「テヘラン(Tehran:تهران)」
1,222万人の人口がある大都市です。
テヘランには、鏡張りの間が有名な「ゴレスターン宮殿」、ペルシア帝国時代の遺物がある「イラン考古学博物館」、「アヤトラ・ホメイニ廟」など見どころがたくさんありますが、絶対必見だと思われるのが「宝石博物館」。
イラン中央銀行の地下金庫にある博物館で、内部にはパーレビ王家が所有していた宝石が展示されています。
182カラットの世界最大のピンクダイヤモンドや、5万個以上の宝石と3.6キログラムの純金で作られた地球儀、3,000個以上のダイヤがちりばめられた王冠、2万6,000個の宝石で飾られた玉座など、世界でも屈指の宝物で埋め尽くされていて圧巻のひとこと!
写真は撮れませんでしたが、Google画像検索で陳列されている写真を見ることができます。
ほんと、すごいですよね!
写真は、1971年にペルシャ帝国建国2500年祭記念事業として建てられた「アザディ・タワー」です。
信仰の熱気あふれる聖地「マシュハド」(イマーム・レザー廟)
聖地マシュハドと「イマーム・レザーの廟」
「マシュハド」は、第八代のイマーム「アリー・アル・レザー」の殉教地として知られ、イランにあるただひとつのイマームの廟として、多くの参拝者が訪れるところです。
人口は約250万人、ホラサン州の州都でイラン第2の都市。文化都市としてイスラムの高等教育機関がたくさんあります。
向こうに青と金色のドームが見えます。あれが、「イマーム・レザーの廟」です。
手前に黒い服を着た女性が見えますが、イランでは女性は、全員チャドルで全身を纏わなくてはなりません。
「イマーム・レザー廟」の入場券
「イマーム・レザー廟」へは、夜行きました。
日本人の女性とイラン男性の夫婦と一緒に行きました。金色のドームも、青色のドームもキラキラとライトアップされていて、とても美しかったです。
手と足と、顔を水で洗い(2回ずつ)、頭を指でなぞり、右手で右足をなぞり、左手で左足をなぞって、入り口の扉に入る時は、扉を触って頭に付けました。
意味はわからなかったのですが、言われた通りにやりました。
敷地内は広大です。ドームやミナレット、美しいゲートによって囲まれています。
鏡張りの部屋があり、鏡のモザイクが、とてもインパクトありました。
中心にある「イマーム・レザーの墓」は人で溢れかえっていました。ものすごい熱気です!廟に頭を擦りつけたり、涙を流している人もいました。
イラン人のイスラム教に対する信仰の篤さをひしひしと感じさせられました。
ここでは何でも願いが叶うと言われたので、私もいくつかお祈りしておきました。
写真は廟のチケットです。ここは、イランの人と一緒でないと入ることは難しいかもしれません。寄付が1,000リヤル。カメラ持込不可でした。
「マシュハド」のチキンライス屋さんの面々
こちらは、「マシュハド」の街の普通の食堂です。店先でチキンをグリルしていました。
イランは旅行者の数が少なく、どこへ行っても人々に取り囲まれました。
チキンライスは、シンプルでスタンダードなお味でしたが、とても美味しかったです。
世界最大の湖「カスピ海」
カスピ海の朝日「マハムド・アーバード」
世界最大の湖「カスピ海」です。ここでは、キャビア(チョウザメの卵)が獲れます。
写真は、「マハムド・アーバード」という町。
「マハムド・アーバード」は、良い所だとイランの人に聞いたので、「マシュハド」から夜行バスで向かいました。約6時間の行程。
しかしながら、「マハムド・アーバード」は、本当に何にもないところ。早朝、誰も居ないカスピ海を少し散策した後、すぐにテヘランに行くという乗合タクシーに乗って、街道を飛ばし、たった3時間で「テヘラン」に着きました。
普通の平野に唐突にある地下洞窟「ハマダン」(アリサドール・ケイブ)
ハマダン「アリサドール・ケイブ」
写真は、イラン西部「ハマダン」という町にある洞窟「アリサドール・ケイブ」です。
何もない平地の下に巨大な地下鍾乳洞が広がっているのちょっとでびっくりします。
洞窟の中には水が貯まっており、深いところでは水深13mにもなるのだそうです。中は徒歩とボートで移動します。所要90分の行程。
暑いイランの夏。洞窟内はひんやりとして気持ちよかったです。
イランその他の見どころ
イランでは、この他、世界の半分と謳われた町「イスファハン」、バラと詩人の都「シーラーズ」、アケメネス朝ペルシャ時代の壮大な遺跡「ペルセポリス」、街全体が廃墟となった遺跡「バム遺跡」など、素晴らしい見どころがたくさん!
これらは、次回ご紹介します。
イラン事情(イラン・カルチャーショック)
イラン旅行の時、ちょっとびっくりしたことや「へぇ〜」って思ったことがたくさんありました。
親切なイラン人
イランには、特に首都テヘランには日本語を話せるイラン人がたくさんいました。バブル期に、当時ビザのいらなかった日本にやってきた大量のイラン人が、バブル崩壊と共に国に戻ってきていたのです。
観光客の姿はほとんど見かけないのに列車の中でも、バスターミナルでも、所々で日本語で声を掛けられました。
たまたま入った電器屋で、「私は飯能で働いていた」などと言われ、驚いたこともあります。
彼らには、「一緒に食事をしよう」とか「もっと日本語で話したい」などとよく誘われました。みんな日本のことが懐かしかったようです。
日本の印象はとてもよかったようです。「日本は世界一いい国だ」とか「日本では本当に親切にしてもらった。あなたにそのお返しをしたい」などと皆一様に言いました。
彼らは本当に親切で、度々食事をご馳走になりましたし、列車のチケットが欲しいと言うとわざわざ駅まで付いてきてくれて、チケットを買う交渉までしてくれました。
それに、日本に行ったことのあるイラン人だけではありません。 ペルシャ語しか話せない老人や、チャドルをまとった地元女性たちも皆親切でした。
チャドルを纏った女性たち
イランに入国してまず驚かされたことは、女性が皆、真っ黒なチャドルを纏っているということです。
全身を覆った真っ黒なチャドルは、髪型もわからず、女性は顔しか見えません。もちろん、そういう話は他の旅行者から聞いていて知ってはいたのですが、実際に街中の女性が全員、黒いチャドルをまとっているのを見ると、正直びっくりでした。
面白いのは、たまに見かけた町の洋服屋さんに色とりどりの派手なドレスなどが売られていたこと。たぶん、あのチャドルの下はとても派手派手な服装なのでしょう。
それにしても、顔だけしか見えませんでしたが、イラン女性はとても綺麗な方が多かったです。
イランのインド大使館でイラン女性と話したときのこと。彼女とはチャドルについて話をしました。彼女によると、チャドルは必ず黒でなければいけない、というわけでもないらしいのですが、黒でないと外人だとか、とにかく変わった人と見られてしまうのだそう。
だけど、彼女自身は特にそういうことを気にしないらしく、黒いチャドルではなく白っぽいスカーフを頭に被っていました。けれども、公式の場や官公庁に行く場合は、やっぱり黒を身に纏うのだそうです。
ちなみに、外国人の女性もイランでは常にチャドルを纏う必要があり、イラン入国前にチャドルを用意し、着用してから入国する必要があります。もちろん、ビザ取得の際の証明写真もチャドル着用での写真が必須です。
イランでは女性の社会進出はとても進んでいるようでした。町のオフィスや店の受付では、女性たちがよく働いていました。しかしながら、男性と女性とはきちんと区別がされているようで、イランのバスは女性の乗る場所と男性の乗る場所が分かれていました。話によるとスキー場での滑る場所も別だそうです。
秘密警察「コミテ」
イランに訪問した時、イランの方からコミテの話をよく聞きました。
コミテとは秘密警察のこと。チャドルを脱いだまま町を歩いたり、不道徳な行いをしたりするとコミテに見つかって逮捕されてしまうのだそうです。
ここで印象的な話を2つ。
テヘランの宿でのこと。
私たち旅行者は部屋で話をしていました。面子はイラン人と日本人とスペイン人です。話が進んでくるとアヤトラ・ホメイニやイラン社会への批判が飛び出してきます。
その時いたスペイン人は、ホメイニやイラン革命に特に否定的な意見の持ち主でした。色々な悪口を言います。
一緒にいたイラン男性は怯えました。彼が部屋の扉の方をしきりに気にしていたのが印象に残っています。コミテが聞き耳を立てているのではないかと心配していたのでしょう。
マシュハドで出会った男性が言っていたこと。
彼のお兄さんは町で、妻でも婚約者でもない女性と遊んでいたのだそうです。そんな時、コミテに見つかってしまい、逮捕されてしまいました。
お兄さんは鞭打ちの刑を受けたのだそうです。鞭打ちはかなり痛いそうで、一ヶ月間、仰向けで寝られないほどだったそうです。
旅行時期:1996年8月
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