メキシコシティに行ったら必ず訪れようと思っていたのが、「国立人類学博物館(Museo Nacional de Antropologia)」です。
「国立人類学博物館」は、チャプルテペック公園にある世界有数の規模と内容を誇る博物館。
テオティワカン、マヤ、アステカなどの遺跡から発掘された壁画や石像を中心に、メキシコ全土から集められた文化財は、12万5,000点を超え、そのうちの6,000点ほどが展示されています。
各地の遺跡にある壁画や石像なども、現地にあるのはレプリカで、本物は全てここにあります!
メキシコの古代文明を知るなら、絶対に訪れるべき必見の博物館です★
メキシコの古代文明を知るなら必見!「国立人類学博物館」
「国立人類学博物館」の外観
「国立人類学博物館」は、チャプルテペック公園を東西に貫く「レフォルマ通り(Paseo de la Reforma)」沿いにあります。
最寄駅は、メトロ7号線の「アウディトリオ(Auditorio)」駅。駅から歩いて5分ほどです。
入場は、火曜〜日曜までの9:00〜18:00まで。入場料は65ペソ(520円)。
写真撮影は、フラッシュ、三脚使用なしならOKで、ビデオ撮影は別途45ペソ(360円)。音声案内機(スペイン語と英語)のレンタルは75ペソ(600円)です。
入り口でチケットを購入し、クロークで荷物を預けて、博物館の中へと進みます。
円形の大噴水
チケットコントロールを抜けると、ぐるりと建物に囲まれた広大な中庭があって、中庭の真ん中には円柱形の大噴水が聳え立っているのが見えます。
古代文明の意匠をモチーフにした大噴水は、かなりのインパクト!
周りの建物は全て展示室になっています。
展示室は、2階建てになっていて、1階は右から反時計回りに、
- 第1室 先住民文化
- 第2室 人類学入門
- 第3室 アメリカの起源
- 第4室 先古文明
- 第5室 テオティワカン
- 第6室 トルテカ
- 第7室 メヒカ(アステカ)
- 第8室 オアハカ
- 第9室 メキシコ湾岸
- 第10室 マヤ
- 第11室 西部
- 第12室 北部
2階は民族学フロアとなっています。
全部しっかりと見て回ったら、丸2日はかかるという「国立人類学博物館」の展示室。
どれもこれも見たい展示ばかりですが、そんなに時間もとれないので、ここは絞ってみるしかありません。
今回は、「第5室 テオティワカン」「第6室 トルテカ」「第7室 メヒカ(アステカ)」「第8室 オアハカ」「第9室 メキシコ湾岸」「第10室 マヤ」を見ることにしました。
メソアメリカ文明とは?
メキシコの古代遺跡マップ
メソアメリカ文明の地図
メキシコおよび、中央アメリカ北西部に発展した文明は、「メソアメリカ文明(Mesoamaica」と呼ばれています。
紀元前二千年紀の末に神殿文化が興隆したこの地域は、以後2,500年もの間、アジア、ヨーロッパ、アフリカの三大陸の文明と交流がありませんでした。
そのため、他の大陸とは全く違った独自の文明が発展しました。
例えば、旧大陸では、文明が生まれ繁栄するのは大河の河畔だというのがセオリーで、アジア・ヨーロッパの文明のルーツと言われる四大文明(エジプト文明・メソポタミア文明・インダス文明・黄河文明)は、いずれも大河の河畔に栄えましたが、「メソアメリカ文明」は大河のない密林の中で生まれ、繁栄しています。
また、「メソアメリカ文明」には、家畜を飼うという習慣がなく、製鉄技術、そして、車輪すらありませんでした。
その一方で、0の概念がインドよりも先に発見されていたり、一年が365日であることを正確に計測できていたりと、天文学や数学、医学、土木・建築技術は高度に発達していました。
宗教は太陽信仰が中心で、占星術が発達。太陽に生贄を捧げる人身御供が日常的に行われていたそうです。
「メソアメリカ文明」は、1519年にスペイン人のエルナン・コルテスによって、西洋人に初めて”発見”されます。
馬も鉄器も銃も持たないメソアメリカ人の文明は、たった600人ほどのスペイン人によって、あっという間に滅ぼされてしまったのです。
第5室 テオティワカン
「テオティワカン文明(Teotihuacan)」とは、メキシコシティの北東約50kmのところにあるテオティワカンを中心に栄えた文明のこと。
紀元前2世紀から6世紀にかけて繁栄し、最盛期の450年頃にはテオティワカンの人口は20万人を超えたそうです。これは当時としては世界有数。
しかし、7世紀中頃、テオティワカン文明は突如として滅亡してしまいます。旱魃が原因と考えられていますが、真相は謎です。
12世紀頃、この地にやってきたアステカ人が、密林の中で廃墟となっていた都市を発見します。
アステカ人は、この都市を彼らの言葉で「神々の都市(テオティワカン)」と名付けました。そして、この都市を後々まで崇拝の対象としたのです。
「ケツァルコアトル神殿」のレプリカ
第5室テオティワカンの目玉が、この「ケツァルコアトル神殿」の実物大のレプリカ。
「ケツァルコアトル神殿」は、テオティワカン遺跡の南の端にある神殿で、現地にある本物と違って、このレプリカは建造当初の極彩色の色合いが再現されています。
「ケツァルコアトル(羽毛のある蛇神)」
神殿の壁面には、「ケツァルコアトル(羽毛のある蛇神)」の彫像があります。
「ケツァルコアトル」は、古くは水や農耕に関わる神でしたが、後に文明を人類にもたらした文化神と考えられるようになったそうです。
雨神「チャルティトゥリクエ」
こちらは、テオティワカン遺跡の「月のピラミッド」の前に立っていた雨神「チャルティトゥリクエ」の巨像(オリジナル)
かなり四角い神様です。
テオティワカン遺跡の記事はこちら→「テオティワカン遺跡」で歴史ロマンを満喫!現地発半日ツアー(ガイド付き)【メキシコ】
第6室 トルテカ
「トルテカ文明(Tolteca)」とは、テオティワカンが滅びた後の7世紀頃から12世紀頃までの間に、メキシコ中央高原で繁栄した文明。
「トルテカ文明」の中心地は、「トゥーラ(Tula)」という都市。メキシコシティの北約65㎞の場所にあり、10世紀後半から11世紀前半に最盛期を迎えました。
「チャック・モール」像
「トルテカ文明」の担い手については、まだ詳しいことは判明していないそうですが、「トゥーラ遺跡」にある「ピラミッドB」の壁画や列柱構造、生贄の心臓を太陽に捧げる台を持った人物像「チャック・モール(Chacmool)」の存在など、遠く離れたユカタン半島にあるマヤ遺跡「チチェン・イッツァ」とそっくりです。
トゥーラ遺跡の戦士像
トゥーラ遺跡の戦士像
こちらは、「トゥーラ遺跡」にある「戦士像」
高さは4.6mもあり、結構巨大です。
この戦士像は、「チチェン・イッツァ」にも似たようなものが残されています。
文様が彫られた石碑
コンゴウインコの顔
コヨーテの頭飾りをつけた人頭像
球技で使われたゴール部分
こちらは、球技で使われていたゴールの部分。
メソアメリカ地域では、球技が盛んに行われていました。
サッカーボール大の硬いゴムボールを、手や足を使わずに壁の高い位置に設置された穴にくぐらせるという競技で、チームは1人〜7人くらい。ボールが硬いので防具を付けていたと考えられています。
球技のゴールがこんなにたくさん!右下のはボール
球技の目的は、神に生贄を捧げる儀式、あるいは、部族間の代理戦争として行われたという説がありますが、本当のことはわかっていません。
面白いのは、球技に勝ったチームは太陽神の生贄として捧げられるということ。
せっかくゲームに勝ったのに結局殺されてしまうのが切ないですね。。。
負けた方は単に殺されるだけだったそうなので、勝った方が良いのでしょうけど。
第7室 メヒカ(アステカ)
第7室 メヒカ(アステカ)
「アステカ文明(Azteca)」とは、1428年頃から1521年までメキシコ中央部に栄えた文明。
12世紀中頃、この地で覇権を握っていたトルテカが衰退すると、メキシコ中央高原はいくつかの都市国家が群雄割拠する時代となります。
そんな折、1345年にこの地にやってきたのが、メキシコ中央高原で流浪の狩猟生活をしていた「メシカ(mēxihcah)」という人々。
彼らは、メキシコ盆地にある「テスココ湖」の湖畔に定住し、湖の小島に首都「テノチティトラン」を築きました。
これが「アステカ帝国」の起源です。
その後、アステカ帝国はメキシコ中部をほぼ統一し、中央アメリカ最大の帝国を築き上げることとなります。
ちなみに、首都テノチティトランは、1519年のスペイン人コルテス来訪時点で、人口が数十万にも及ぶ、当時の世界最大級の都市であったそうです。
太陽の石「アステカ・カレンダー」
「アステカ・カレンダー」の図解
第7室メヒカ(アステカ)の目玉は、この太陽の石「アステカ・カレンダー」
直径3.6mの円盤状の巨石で、これはアステカの暦を図形化したものと言われています。
アステカでは、この宇宙は今まで4つの時代を経てきており、現在は5番目の「太陽トナティウ」の時代であると考えられていました(中央にある顔がトナティウ)。
アステカの暦は、占星術で使われる「トナルポワリ(260日暦)」と、国家行事を運営するために使われる太陽暦である「シウポワリ(365日暦)」の2つの暦の体系を持っていたそうです。
この2つの暦は、52年に1度重なり合うため、アステカでは52年を1つの周期として扱っていたのだとのこと。
アステカでは、20日を1ヶ月とする1年18ヶ月に分けられ、それに空白の5日間をプラスしてちょうど365日になるようになっていました。
アステカ人は、この現代に引けを取らないような精密な暦に従って労働し、その節目ごとに生贄を伴う祭事を行っていたそうです。
7代目の王ティソクの勝利を記念したレリーフ
精巧な彫刻が彫られています。
彫像やレリーフなど
手前の長いのは木製の、たぶん太鼓のような楽器です。
首都「テノチティトラン」の想像図
首都「テノチティトラン」の模型
第7室メヒカ(アステカ)には、「テノチティトラン」の想像図と模型が展示されています。
「テノチティトラン」は、スペイン人に征服される前、現在のメキシコシティの場所にあったアステカ帝国の首都です。
「テノチティトラン」は、「テスココ湖」に浮かぶ小島に造られた都でした。
現在のメキシコシティの場所は、もともと湖だったということがわかります。
ちょっと驚きですね!
巨大なケツァルコアトルの頭部
蛇をモチーフにした彫像が多いです。
こちらも蛇、見事な造形
「コアトクリエ」の巨像
これは、「コアトクリエ」の巨像。
「コアトクリエ」は、大地の女神であり、死の神であり、他の神々を産んだ母なる神であるとのこと。
腹部には切り落とされた首があり、そこから血が2匹の蛇となって流れ落ちていて、かなり不気味な造形。
この造形を生み出した感性、アジアやヨーロッパなどの旧大陸とは、全く違いますね。
たくさん置かれた石像も、どれも特徴のある造形ばかり。
第8室 オアハカ
第8室オアハカでは、オアハカ州の「モンテ・アルバン」や「ミトラ」を中心に栄えた「サポテカ文明(Zapoteca)」「ミシュテカ文明(Mixteca)」の出土品が展示されています。
モンテ・アルバン遺跡の想像図と復元模型
「モンテ・アルバン(Monte Albán)」は、サポテカ人によって紀元前500年頃から建設が始まった中央アメリカ最古の遺跡。
「モンテ・アルバン」は、最盛期の500〜750年頃には人口が約2万5000人にまで増加し、当時は中央アメリカで最も高度な文化水準を誇っていたそうです。
第104号墳墓(モンテ・アルバン遺跡)
その後、サポテカ人は理由は不明ながら「モンテ・アルバン」を放棄。新たな祭祀センターとして、「ミトラ(Mitla)」を建設しました。
放棄された「モンテ・アルバン」は、その後紀元1000年頃、ミシュテカ人の埋葬の場として再利用されたのだとか。
何とも言えない不思議な造形
ミシュテカ文明の絵文書
「ミシュテカ文明」は、その歴史と系図を鹿皮に屏風のように折りたたまれた本の形式で描いた絵文書がよく知られています。
ポップ&カラフル!現代のイラストレーターも真っ青のデザインセンスです。
また、ミシュテカ人は高い金属工芸技術を持っていたそうです。
写真は撮っていないですが、翡翠などの宝石でできた仮面や、黄金を使った装飾品などが、いくつも展示されていました。
第9室 メキシコ湾岸
第9室メキシコ湾岸では、メキシコ古代文明の母とも言われる「オルメカ文明(Olmeca)」について紹介しています。
「オルメカ文明」は、紀元前1200年頃から紀元前後にかけてメキシコ湾岸の低地で反映した文明で、アメリカ大陸で最も初期に生まれた文明として知られています。
「オルメカ文明」についてはまだあまりよくわかっていないそうですが、既にこの頃から宝石や巨石を加工する技術を持ち、都市には神殿が築かれ、祭祀場では儀式としての球技が行われ、人間が生贄として捧げられていたようです。
また、0の概念を知り、精巧な暦を使うなど、数学や天文学も高度に発展していたと考えられています。
インパクト抜群!「オルメカヘッド」と呼ばれる巨石人頭像
黒人みたいな風貌の人頭像
「オルメカ文明」で何と言っても有名なのが、「オルメカヘッド」と呼ばれる巨石人頭像です。
大きなもので3mにもなるこの人頭像は、もともと頭だけで体の部分はありません。
以前はその風貌からモデルはアフリカ黒人であり、メソアメリカとアフリカとの交流説も提唱されましたが、現在ではオルメカの歴代君主、もしくは球技の競技者の肖像であるという説が有力視されているようです。
特徴ある造形の人物像
顔は大人、体は子供、不思議な彫像!
色々な顔、形、表現力が本当に豊か!
展示室には無数の人物像、彫像が展示されていましたが、表情、顔付き、全体的なフォルム、装飾に至るまで、どれも本当に個性的。
見ていて飽きません!
アーティストにとって、ここは宝の山です★
古今東西、世界中のイラストレーターやデザイナーが参考にしたことでしょう〜。
第10室 マヤ
「マヤ文明(Maya)」は、ユカタン半島などメキシコ南東部、グアテマラ、ホンジュラス、ベリーズなどの地域に紀元前3000年〜16世紀頃まで栄えた文明のこと。
「マヤ文明」では、統一国家は存在せずに都市国家が共存し、メキシコおよび中米4カ国に約70の都市があったと推測されています。
最盛期は8世紀で、ユカタン半島の遺跡「チチェン・イツァー(Chichén Itzá)」や「パレンケ(Palenque)」、「ウシュマル(Uxmal)」、グアテマラの「ティカル(Tikal)」、ホンジュラスの「コパン(Copán)」など、多くの遺跡が残されています。
マヤ文字が書かれた石碑
上の写真は、「マヤ文字」が書かれた石碑です。
「マヤ文字」は、マヤ文明で使われていた文字で、石碑の彫刻や壁画、土器や絵文書などに記載されています。
文字は、動物の頭を模ったものや幾何学的なものがあって、その数はなんと4万種!
表音文字と表意文字があり、日本語の漢字とひらがな、漢字のふりがなのようにひとつの単語に表音・表意の2つの表記をすることができます。
文書は、左から右、上から下へと読まれ、こうした法則はソビエトの研究者「ユーリー・B・クノーロゾフ」によって1952年に発表されました。
数字は、点と線、および0を表す図形で表現され、数字体系は20進法であったことがわかっています。
石碑には、主にマヤの歴史が書かれているのだとのこと。
巨大な神殿のレプリカ
マヤの石碑
ジョジョの作者が参考にしてそう。
澄ました顔の「チャック・モール」像
上の写真は、「チチェン・イツァー」の遺跡内にあった「チャック・モール」像。
Wikipediaの記述によると、
チチェン=イッツアの遺跡内のチャクモールの目には翡翠が埋め込まれているが、その翡翠はどう言うわけか中国産の物である事も確認されており、古代史の謎の一つとなっている。
とのこと。
「チチェン・イツァー」が築かれたのは10世紀ごろ。スペイン人エルナン・コルテスがメキシコを”発見”したのが1519年。
旧大陸の、しかも中国の翡翠がマヤの遺跡にあるのは、ほんと謎。
建物の外にあるホチョブの神殿復元
博物館の建物の外には、復元された「ホチョブ遺跡(Hochob)」の神殿がありました★
「ホチョブ遺跡」は、ユカタン半島の付け根部分、カンペチェ州にあるマヤ遺跡です。
パレンケの王パカル王の翡翠の仮面
復元された王の墓室
こちらは、第10室マヤの目玉、パレンケにある「碑文の神殿」から発見された「パカル王の翡翠の仮面」と復元された墓室です。
「パレンケ(Palenque)」は、メキシコ南東部チアパス州にあるマヤ文明の都市遺跡。
7世紀に最盛期を迎え、密林の中に多数の神殿が配置されています。
1952年、メキシコの考古学者「アルベルト・ルス」が、パレンケで最も高いピラミッド「碑文の神殿」の地下室の奥に墓室を発見。
墓室には石棺があり、5.5トンもある石版を外したところ、数多くの装飾品に囲まれ、翡翠の仮面を被った遺体が眠っていました。
これが、615年に12歳で王位を継承し68年間もの長い間パレンケを統治し、パレンケを大いに発展させた王「パカル王」です。
国立人類学博物館は見どころ満載!
マヤ、アステカ、テオティワカンを始め、メキシコの古代文明の貴重な遺物を堪能できる「国立人類学博物館」
展示されている彫像やレリーフ、石版や仮面、土器などは、どれもこれも個性的で面白いものばかり★
遺跡のレプリカや、想像図や模型なども充実していて、スペイン語の説明文が読めなくても充分に楽しむことができます。
アステカやマヤの遺跡に行く前に、この博物館を訪問しておけば、遺跡をより深く理解することができると思います。
もちろん、遺跡に行った後、訪問するのもGood!
「国立人類学博物館」、メキシコシティに行ったら、訪問はマストです!!
◆「国立人類学博物館(Museo Nacional de Antropologia)」
- 住所:Av Paseo de la Reforma & Calzada Gandhi S/N, Chapultepec Polanco, Miguel Hidalgo, 11560 Ciudad de México, D.F., メキシコ
- アクセス:メトロ7号線の「アウディトリオ(Auditorio)」駅から歩いて5分ほど
- 営業時間:9時00分~19時00分(月曜定休)
- 料金:65ペソ
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