バルカン諸国(旧ユーゴスラビア)の旅。
7日目のこの日は、早朝発の列車に乗ってモスタルを出発し、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都「サラエボ(Sarajevo)」へと向かいます。
サラエボでは、戦争トンネルツアーに参加。ランチは旧市街の「バシャチャルシア」で「ボスニアンパイ」をいただきます。
ボスニア国鉄の列車に乗って、モスタルからサラエボまで2時間半の汽車旅
モスタル駅
早朝4時に起床。前日にホテルに頼んでおいたタクシーに乗ってモスタルの駅へと向かいました。
ホテルから駅までのタクシー料金は3KM(181円)。
モスタル到着時に乗ったタクシーは€10(1,179円)だったので、10倍くらいぼったくられていたことが判明!
かなり悔しい気分です。。
タクシーは10分ほどで駅に到着しました。
モスタルからサラエボまでの列車は、ネットで事前予約しました。
予約したサイトはこちら。ボスニア国鉄のWEBサイトです。
列車は、モスタル6:39分発、サラエボ8:33分着。所要時間は2時間半。
料金は733円でした。
モスタル駅のホーム
6:39分発のサラエボ行きを待ちます。
ガランとしたモスタルの駅
モスタル駅のホームの様子です。
皆さん、6:39分発のサラエボ行きの列車を待っています。
ガランとして何もないホームですが、その何もなさがいい感じ。
モスタル〜サラエボ間はバスの方が本数が多いですが、鉄道は沿線の風景が美しいということで、ツーリストに人気があります。
ホームで待つ乗客にも欧米人ツーリストの姿が目立ちました。
サラエボ行きの列車が到着!
しばらく待っていると、遠くからゴトゴトという鉄路の振動音とポーッという汽笛が聴こえてきます。
そして、程なくしてサラエボ行きの列車が勢いよくホームに入線してきました!
渋いクラシックなスタイルの機関車。格好いいです♪
さあ、列車に乗り込みましょう〜!
サラエボ行きの列車の車内
列車は乗客を乗せるとすぐに出発。
車内は日本の特急列車と同様のリクライニングシートが並ぶスタイルで、空調も程よく効いており、まずまず快適な感じ。
チケットに座席指定はありましたが、皆さん自由に座っている様子でした。
モスタル〜サラエボMAP
車窓から日の出が見えました。
列車はモスタルの駅を出発すると、山がちなボスニア南部の景色をゴトゴトと進んで行きます。
しばらく走っているうちに、山の向こうから太陽が昇って来るのが見えました!
長閑な農村風景を照らし出す朝の太陽の光。
ボスニアの1日が始まります★
ボスニアの長閑な田舎町
車窓から見えた景色は素晴らしいものでした。
山間に点在する小さな集落、見上げるほどに切り立った峡谷、放牧地で草を食む羊の群れ。進行方向右側にはネレトヴァ川が併走し、そのうち、広々としたヤブラニッツァ湖が現れます。
途中、いくつかの小さな駅に停車しつつ、列車は北へ、サラエボへと向かってひた走ります。
首都サラエボに近づいてきました。
出発して2時間を過ぎた頃、風景は次第に開けてきて、車窓には高層のアパートや商業ビルなどが徐々に増え始めてきました。
ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボの街並みです。
サラエボ到着!
サラエボ到着!
快適な汽車旅でした。
そして、モスタルを出発して2時間半後、列車は8:33分に(ちょっと遅れましたが)サラエボ中央駅に到着しました。
快適な汽車旅でした♪
サラエボ駅のホーム
サラエボ駅のコンコース
ホームからコンコースに出て駅の外へと向かいます。
モスタルよりも規模は大きいですが、サラエボ駅もモスタル駅と同じようにガラーンとしていて人の姿があまりなく殺風景な感じ。
ボスニア・ヘルツェゴビナはやっぱり鉄道よりもバスの方がメジャーな移動手段のようです。
ガラーンとしたサラエボ駅前の風景
駅からは「アヴァズ・ツイスト・タワー」が見えます。
コンコースを抜け、サラエボの駅前に出たところ。
駅前はかなり広々としていますが、お店もなく閑散としています。
駅からはサラエボ新市街のランドマークである「アヴァズ・ツイスト・タワー」が見えました。
サラエボの駅舎
こちらは、サラエボ駅の駅舎。
大きな建物ですが、共産主義っぽい無機質な外観です。
サラエボのトラム
駅前にはトラムが走っていました。
宿泊予定の「ホテル ホリデー(Hotel Holiday)」は、サラエボ駅から徒歩10分ほどの所にあります。
スーツケースをガラガラと引きながらホテルへと歩いて行きます。
宿泊した「ホテル・ホリデー」
宿泊した「ホテル・ホリデー」
ホテル前の「スナイパー通り」
黄色い大きな外観の「ホテル ホリデー(Hotel Holiday)」は、かなり目立つのですぐにわかりました。
ホテルの前の大通りは、サラエボ一番のメインストリートで、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時代は通称「スナイパー通り」と呼ばれていたそうです。
紛争時、サラエボの町はセルビア軍に包囲され、住民は町の外に出ることが出来なくなりました。
町の周囲を取り囲む丘の上にはセルビア軍のスナイパーが配備され、通りを歩く住民を狙撃したのだとのこと。
「ホテル・ホリデー」の外観
「ホテル・ホリデー」のロビー
「ホテル ホリデー(Hotel Holiday)」は、1984年のサラエボオリンピックの際に開業したホテルで、当時は「ホリデー・イン・ホテル」と呼ばれていました。
1992年から1996年のサラエボ包囲の際、このホテルは報道機関の宿泊場所&報道の最前線の基地となり、世界中の報道機関やジャーナリストが滞在し、ボスニア紛争の悲惨な現実を伝え続けたそうです。
「ホテル・ホリデー」の受付
ホテルは、ホテル検索サイト経由で事前予約。
一泊13,733円でした。
開業して30年以上も経っているホテルなので設備は古めですが、さすが一流のホテル。
お部屋は快適で気持ちよく過ごすことができました。
ただし、フロントの対応はちょっとイマイチな感じ。
「ホテル ホリデー(Hotel Holiday)」についての詳細はこちら↓
戦争トンネルツアーに参加
ホテルでチェックインを済ませた後は、サラエボ包囲の時の戦跡であるトンネルを訪問する「戦争トンネルツアー」に参加。
トリップアドバイザーで事前予約。
10:00から12:00までの2時間のツアーで、料金は2,347円。
待ち合わせ場所はホテル指定で、ガイドさんが迎えにきてくれました。
ツアーとは言うものの参加者は自分たちだけ。
英語の説明だったので半分くらいしか理解できませんでしたが、サラエボ包囲の困難と悲劇を感じ取ることができました。
戦争トンネルツアーについての詳細はこちら↓
サラエボ事件の現場「ラテン橋」
ツアーの車で旧市街までピックアップしてもらいました。
ツアー終了後、ガイドさんにお願いしてサラエボ旧市街の「バシュチャルシア」までピックアップしてもらうことに。
「ホテル・ホリデー」からスナイパー通りを東へ15分ほど走ると、バシュチャルシアの入口に到着!
サラエボ事件の現場「ラテン橋」
入口にはサラエボを東西に流れるミリャツカ川が流れており、その上に「ラテン橋」と呼ばれる橋が架けられています。
この橋は、第一次世界大戦の発端となった事件「サラエボ事件」が起こった場所として有名な所です。
オーストリア・ハンガリー皇太子夫妻がここで暗殺されました。
サラエボ事件をきっかけに第一次世界大戦が勃発
サラエボ事件の碑文
1914年6月28日、この場所でオーストリア・ハンガリー帝国の次期君主とされていたオーストリア大公フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィー・ホテクが、ボスニア系セルビア人の青年によって暗殺されました。
ボスニアは1908年にオーストリア・ハンガリー帝国によって併合されており、セルビア人が多く住んでいたボスニアでは反感が高まっていた最中でした。
暗殺を行った青年は、大セルビア主義テロ組織の一員でしたが、暗殺計画を立て支援したのはセルビア軍であったとのこと。
この事件をきっかけにオーストリア・ハンガリー帝国とセルビア王国の国交は断絶され、7月28日にはオーストリア・ハンガリーがセルビアに宣戦布告。
セルビア支援のためロシアが兵力を動員すると、それに反発したドイツがロシアに宣戦布告。戦線はヨーロッパ全土に拡大していくこととなります。
サラエボってどんな町?
サラエボの街並みとトラム
さて、ここでサラエボってどんな町なのか、ご紹介したいと思います。
「サラエボ(Sarajevo)」は、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都であり、同国最大の都市であり、ボスニア・ヘルツェゴビナの構成体のひとつであるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦(ボシュニャク人とクロアチア人が多数派の国)の首都でもあります。
なお、サラエボに隣接して、ボスニア・ヘルツェゴビナのもうひとつの構成体であるスルプスカ共和国(セルビア人が多数派の国)の首都イストチノ・サラエボがあります。
ディナール・アルプスに囲まれたサラエボ渓谷の中にあり、都市圏の人口は約31万人。
サラエボを流れるミリャツカ川
町が大きく発展したのは、15世紀から19世紀にかけてのオスマントルコ帝国統治下のこと。20世紀初頭にはオーストリア・ハンガリー帝国に併合され、第二次大戦中はナチスの支配を受けます。
戦後、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の主要都市としてサラエボは発展し、1984年には冬季オリンピックを開催するまでになりました。
ユーゴスラビア崩壊後に勃発したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、町は4年もの間、セルビア軍に包囲され(セルビア包囲:1992年〜1996年)、包囲戦の過程で約12,000人が殺害され、50,000人以上が負傷したと言われています。
サラエボは、数世紀の間、イスラム教徒、セルビア正教徒、ローマ・カトリック教徒、ユダヤ教徒など、様々な民族が共存してきた都市で、「ヨーロッパのエルサレム」と呼ばれたこともあったそう。
現在は民族構成比の統計調査は行われていませんが、ボスニア紛争前の1991年の統計では、ボシュニャク人(イスラム教徒)が49%、セルビア人が34%、クロアチア人が7%という構成比であったそうです。
東西それぞれの帝国の影響を受け、様々な宗教が共存してきたサラエボ。その文化的多様性は観光資源として魅力的であり、観光は紛争後のサラエボの主要産業のひとつとなっているのだとのこと。
旧市街「バシャチャルシア」
旧市街「バシャチャルシア」の街並み
ラテン橋を見た後、ミリャツカ川の北に広がる旧市街「バシャチャルシア」へと向かいます。
既にお昼時、お腹も空いてきたので、ランチにしたいと思います。
バシャチャルシアのトルコ風の街並みを歩きながら、お目当てのお店を探します。
ボスニアコーヒーショップ
ガジ・フスレヴ・ベイ・ジャミーヤ
トルコの風情が色濃い「バシャチャルシア」
「バシャチャルシア(Baščaršija)」は、オスマントルコ時代の16世紀に、アラブのスークをモデルに建造された商業地区です。
当時は金属加工品や陶器、宝飾品などが売り買いされていたのだそう。
サラエボ観光のハイライトです★
ボスニアンパイのお店「Sac」
ボスニアンパイのお店「Sac」の看板
ボスニアンパイのお店「Sac」
旧市街「バシャチャルシア」の界隈の一角に、ボスニアンパイのお店「Sac」はあります。
この「Sac」は、ボスニアンパイ「ブレク(Burek)」をいただけるお店。
さっそく、お店の中に入ってみることにしましょう〜♪
「Sac」のカウンター
「ブレク(Burek)」は、ピタという棒状や渦巻状のパイの中にお肉が入った、ボスニアで人気のファーストフード。
なお、チーズ入りのピタは「スィルニッツァ(Sirnica)」、ほうれん草入りのピタは「ゼリャニッツァ(Zeljanica)」、じゃがいも入りのピタは「クロンピルシャ(Krompiruša)」というとのこと。
注文したボスニアンパイ「スィルニッツァ(Sirnica)」
今回、肉入りのブレクと、チーズ入りのスィルニッツァを注文したのですが、ブレクは無くなったとのことで、スィルニッツァだけをいただくことに(9KM:542円)。
塩気の多いチーズが入ったピタ。もちもちとした食感がなかなか美味しい♪
チーズだけでちょっと飽きがきてしまったので、お肉入りのブレクも食べてみたかったです。
食後は、サラエボを一望できる丘に登り、旧市街「バシャチャルシア」をぶらぶら散歩します。
サラエボMAP
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