南米の国「アルゼンチン」の首都「ブエノスアイレス」は、南米のパリとも称されるヨーロッパ的な街並みが魅力的です。
ちょうど、経済危機の直後に訪れたため、外国人にとってはかなり物価が安く感じられ、「アサード(ステーキ)」とワインをかなり安く食べることができました。
今回は、「ブエノスアイレス」についてご紹介します♪
アルゼンチンの首都「ブエノスアイレス」(Buenos Aires)
7月9日大通りにある「オベリスコ」
アルゼンチンの首都「ブエノスアイレス」(Buenos Aires)。
アルゼンチンの人口は4000万人近く。民族構成はヨーロッパ系が85%、メスティーソおよびインディヘナなどが15%であるとされますが、実はヨーロッパ系アルゼンチン人の過半数に先住民の血が流れているのだそうです。
白人はスペイン移民のほか、イタリア系が多く、アルゼンチンのスペイン語はナポリ方言が混じっていると言われています。
また、ボリビアやパラグアイからの移民のほか、中国などのアジア系の移民も多く、アラブ系、アフリカ系、ユダヤ系のアルゼンチン人も少数ながらいるそうです。
宗教はカトリックが9割以上を占めています。
ブエノスアイレスの街角
南米のパリと称されます。
国会議事堂
首都、ブエノスアイレスは南米のパリとも言われる美しい町です。
16世紀、スペイン人によって建設された町で、人口は約300万人。
ボカ・ジュニアーズを始めとするサッカーの盛んな町で、かの有名なアルゼンチンタンゴの発祥の地でもあります。
ブエノスアイレスは本物の都会でした。街並みはヨーロッパの都市とまるで遜色がありません。
ブエノスイアレスの街角
アルゼンチンにおける都市への人口集中は著しく、ブエノスアイレス首都圏に居住する人は、全人口の4分の1に及んでいるそうです。
町のはじまりは16世紀にまで遡ります。
町を建設したのはスペイン人。それまでこの地は、地元の先住民チャルーア族の住む地域であったそうです。
それから、この地はスペインの植民地として長い年月を過ごしますが、1810年の五月革命によって自治政府が発足。以後、国内の内戦を経て、現在のアルゼンチン共和国として国家が統一されたのが1862年のことです。
ブエノスアイレスのラジオタクシー
ラジオタクシーと街並み
ラジオタクシーと街並み
町は碁盤目状に区切られており、市内には世界三大劇場のひとつ「コロン劇場」や「カテドラル、カサ・ロサーダ」など、コロニアル風建築が並んでいます。
市内交通は5路線ある地下鉄と、縦横無尽に走っているミニバス「コレクティーボ」。
黄色と黒の「ラジオタクシー」もたくさん走っています。
ブエノスアイレス市内の公園
気候は南半球のため、夏と冬が日本とは逆。
東京と同じ温暖湿潤気候であるため、四季があります。
「7月9日大通り」とオベリスコ
世界一幅が広いといわれる「7月9日大通り」
セントロの中心には世界一幅が広いといわれる「7月9日大通り」があります。
この大通りは本当に広く、横断歩道も信号が青から赤に変わるまで普通に歩いていたら渡りきれないくらいの広さでした。
3つの分離帯を挟み8つの車線があるのですが、たいていその分離帯で再び立ち止まることになります。
しかも驚かされるのは、これだけ多くの車線があるのにも拘らず道は決して空いてはいないということです。
渋滞はしていませんでしたが、通りはかなり車で埋まっていました。
夕方の「オベリスコ」
その大通りの真ん中には真っ白で巨大な塔が建っています。
「オベリスコ」です。
もちろん、これはエジプトから持ってきたものではなく、表面は白くつるりとした新しい物なのですが、形は一緒。
ブエノスアイレスの繁華街
パリに似たブエノスアイレスの街並み
「オベリスこ」から東へと向かって歩きます。
「コリエンテス大通り」、そして、それに並行する「ラバージェ通り」は、映画館や劇場、カフェやレストランが並ぶ繁華な通りです。
「ラ・エスタンシア」でアサードを食べる
「ラバージェ通り」には、アサード(ステーキ)屋が何軒か並んでいます。
そのうちの一軒、デパートの食堂のようなレストランである「ラ・エスタンシア」でランチをとることが、ブエノス滞在時の私の日課のひとつになっていました。
「ラ・エスタンシア」でアサードを食べる
アルゼンチンは肉牛の国です。
豊かな大平原パンパで育った肉牛を網焼きにした「アサード」は、アルゼンチンを代表する料理です。
草履のようにでかいジュージューと油を滴らせた肉の塊はうまいの一言!
ランチには付け合せのポテトに赤ワインの小瓶が付いてきます。
それでたったの8アルゼンチンペソ(343円)。信じられないくらい安いです!
2001年の経済破綻の余波で、この時アルゼンチンは国中が大変なことになっている最中でした。
外国人にとってこの国の物価は驚くほど安くなっていたのです。
町で見掛けたデモ行進
アルゼンチンペソの市場価値が地に落ち、街角で出会ったアルゼンチン人のおじさんは、「暮らしは悪くなる一方だ」「最近は以前にはほとんどいなかったホームレスが増えてきて、治安も悪くなってきている」などと、言っていました。
このおじさんは日本で働いたことがあり、日本語が話せる方でした。懐かしかったみたいで、向こうから声を掛けてきたのです。
けれども、私のようなただの旅行者にとって、当時のこの国の物価の安さは、かなり助かりました。
物価が安いだけでなく、欧米とそれほど遜色ないレベルの食事や宿が、非常に安価で利用できるということで、ポイントが高かったのです。
私は分厚い肉を頬張り、グラスに注いだワインを優雅な気分で味わいながら、
「このランチをこの値段で食べられる。それだけでこの町に滞在する価値はある」などと、勝手なことを思っていました。
私は毎日のように、このお店でステーキに舌鼓を打ち、ワインを味わってしまいました♪
旅行時期:2003年7月
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