※前回の記事→旧正月のマカオと「カジノ・リスボア」【香港・マカオ】
マカオの中心部、モンテの砦の麓にマカオのシンボルともいえるモニュメントが残されています。
「聖ポール天主堂跡」(大三巴牌坊)です。
聖ポール天主堂跡(大三巴牌坊)
「聖ポール天主堂跡」(大三巴牌坊)
「聖ポール天主堂跡」(大三巴牌坊)
壁一枚しか残っていません。
1533年、ポルトガル人、ジョルジェ・アルバレスは中国南部で海賊を退治した功績により、当時の明朝から、この「マカオ」で貿易を行うことを許されました。
以後マカオは、中国や日本、東南アジアやヨーロッパとの貿易中継地として大いに栄えたそうです。
カトリックの布教組織「イエズス会」がマカオに定住したのは1565年。
彼らはこの地でキリスト教の布教を精力的に行い、1602年には、当時東洋一であると謳われたこの聖堂を建設しました。
建設には日本での迫害を逃れた日本人キリシタンたちも従事したそうです。
朝の「聖ポール天主堂跡」(大三巴牌坊)
1762年、イエズス会はマカオを追われます。
その後、聖堂は市庁舎、そして、軍駐屯地として使用されましたが、1835年、火事のためこの西正面ファサードを残して焼失してしまいました。
昼の「聖ポール天主堂跡」(大三巴牌坊)
マカオは1887年、ポルトガルの領土となります。
けれども、その頃すでに、マカオの繁栄は過去のものとなっていました。
天然の良港を持つ香港が大英帝国の支配化の下、繁栄を謳歌していたからです。
マカオの貿易港としての地位は凋落してしまっていたのです。
夜の「聖ポール天主堂跡」(大三巴牌坊)
1987年、ポルトガルと中国がマカオ返還の共同声明に調印。
1999年にマカオは中国に返還されました。
現在マカオは特別行政区となり、返還後50年はポルトガル時代の制度が保全されることとなっています。
モンテの砦から見た「聖ポール天主堂跡」(大三巴牌坊)
モンテの砦から聖ポール天主堂跡が見えます。
聖ポール天主堂跡は、四世紀以上に渡るアジアへのキリスト教布教の歴史を伝える、物言わぬ語り部です。
新年明けのマカオを散歩
マカオの街並み
新年明けの朝、私はマカオの街をぶらぶらと散歩しました。
島の中央部にある高台、ここに「モンテの砦」があります。
この砦は17世紀初頭にイエズス会によって築かれたものだそうです。砦にはマカオの歴史を紹介する「マカオ博物館」もあります。
マカオの路地
高層の住居が密集しています。
香港と同じで坂が多いです。
マカオのごちゃごちゃした路地
坂の多い道を南に向かって歩いていきます。
マカオのごちゃごちゃとした街並みにはまだ人がほとんど歩いていませんでした。
けれども、街は喧しい音に溢れていました。
それは、なぜか❓
至る所で爆竹が鳴らされていたからです❗️
人々は家の軒先から街路に向かって爆竹を投げ込みます。新年を祝福しているのです。
ですけど、突然の爆音にさらされる歩行者にとってはたまったものではありません。
いつ音が鳴るか、ヒヤヒヤしながら道を歩きました。
聖オーガスチン教会
「聖オーガスチン教会」です。
1586年にスペインから来たオーガスチン派の修道士たちによって創建されたのが始め。現在の建物は1874年に再建されたものだそうです。
この界隈は穏やかな風情に包まれていました。
聖オーガスチン教会はスペインのアウグスチノ会によって1586年に創建されたそうです。
聖オーガスチン教会を描く
聖オーガスチン教会の内部
教会の内部には十字架を担いだキリスト像が祀られています。
木製の椅子に座って厳かな静寂に身を任せていると、なんだか眠くなってきます。
私は、そのうち、こくり、こくりと居眠りを始めてしまいました。。。
聖ヨセフ修道院及び聖堂
「聖ヨセフ修道院及び聖堂」です。
イエズス会によって建築された中国バロック建築の聖堂で、創建は1758年。
内部には、フランシスコ・ザビエルの上腕部の遺骨も祀られています。
ポルトガル風情のあるマカオの街並み
香港にあるような雑居ビルの合間に、ポルトガル風の家や教会が所々に紛れています。
その水色や黄色のパステルカラーの色合いが、マカオの街を明るく開放的に見せていました。
夜のマカオの街並み
マカオは、2005年7月、22の歴史的建造物と8ヶ所の広場が世界遺産「マカオ歴史地区」として登録されました。
歩いて回れる距離にあるそれらのスポットを巡ると、ポルトガル植民地時代の東西の文化の共存と、16〜17世紀の東西交易での繁栄をうかがい知ることができます。
旅行時期:2003年1月