『印度放浪』(1972年)、『全東洋街道』(1981年)、『東京漂流』『メメントモリ』(1983年)など、インパクトのある写真と強烈なメッセージを組み合わせた作品を発表し続けている写真家・文筆家の藤原新也氏。
1972年に発表された『印度放浪』や、1983年の『メメントモリ』は、インドやアジアを旅する若者たちのバイブル的な存在となりました。
そんな藤原氏の展覧会が、東京・世田谷美術館にて、2022年11月26日(土)~2023年1月29日(日)に開催。展覧会「祈り・藤原新也」展は、「祈り」をキーワードに、藤原新也氏の初期作から最新作までの作品を一堂に展示した集大成的な展覧会です。
藤原新也氏の初期作から最新作までの作品を一堂に展示
「祈り・藤原新也」展
展覧会場である世田谷美術館は、アクセスが不便な場所にあり、訪問も会期終了直前だったのですが、会場は当日券の販売窓口に長蛇の列が出来るほどの人気。客層も老若男女様々な人が訪れていました。
藤原新也の作品。かく言う私も『印度放浪』や『全東洋街道』『メメントモリ』を読み、インドを旅した人のひとり。ネットが普及していなかった当時、若者たちは『印度放浪』(と沢木耕太郎の『深夜特急』)を読んでイメージを膨らませ、インドに旅立ったのです。
展覧会では、これまでの藤原新也の代表的な作品(写真と文章)を、テーマごとに展示・紹介。藤原氏が書いた「書」や描いた「絵」、コロナ禍の写真など近年の作品も展示されていました。
展覧会の写真撮影はOKだったので、心に響いた作品(写真と文章)をテーマごとにいくつかご紹介します★
序章
スイッチオフ
第一回緊急事態宣言。街から人が消えた。高架橋から眺める渋谷の街は、どこかの巨大な配電盤がスイッチオフしたかのような静寂に包まれている。 2020年4月6日 渋谷(東京)
かみさま
人間のみが創り出した、かみさまという不思議な想念。気候変動カタストロフ。ウィルス禍、戦争。地球規模の瀕死のこのとき、それでもなおかつそこに、かみさまはいるのか。あるいはいないのか。
世界のはじまり
バリ島の山中。無人の沼に半身を浸かり、朝の暗いうちから蓮の花の咲くのを待つ。東の空にあかね色がさしはじめると、それに呼応するかのようにゆっくりと蓮の花弁が広がりはじめる。世界のはじまりは、こんなにも美しいのかと息を飲む。
「序章」として展示されていたのは3枚の写真。
緊急事態宣言下の渋谷の街の風景と、奈良の仏像、バリ島の蓮の花。
藤原氏のこれまでの足跡と、今回のテーマ「祈り」を想起させる3枚。この3枚の写真と言葉によって、一気に藤原氏の作品世界に引き込まれていきます。
メメント・モリ(Memento Mori)
死を想え(メメント・モリ)
インドの聖地バラナシ。諸国行脚を終えたひとりの僧が自らの死を悟って、河原に横たわる。夕刻のある一瞬、彼は両手を上げた。そして両手指で陰陽合体の印を結び、天に突き出す。その直後、彼は逝った。死が人を捉えるのではなく、人が死を捉えた。そう思った。
最初のブース「メメント・モリ(Memento Mori)」では、『印度放浪』(1972年)や『メメントモリ』(1983年)掲載の作品を中心に、ガンジス川沿いにあるインドの聖地バラナシの写真を展示。
ヒンドゥー教徒は、聖地バラナシで死を迎え、河岸の火葬場で焼かれ、聖なるガンジス川に流されることを至上の喜びであると考えています。
敬虔なヒンドゥー教徒は、死を悟った時、聖地バラナシにある「解脱の家」と呼ばれる施設に赴き、死を待ちながら暮らすのだそうです。
「火葬」
「火葬」
火葬
ガンジスの川辺。精霊歌とともに次々と死体が運ばれて来る。死体から火と煙が立ち昇った。肉の焼ける匂いが鼻をつく。焼けた灰は箒でサッとはかれ、川に捨てられた。来る日も来る日も見続けた。そして死への恐れが日ごと遠ざかっていった。
バラナシでは、死が日常の風景の一部として存在しています。
河岸の火葬場では延々と死体が焼かれ、路地では遺体を運ぶ行列と頻繁にすれ違います。そして、川には焼け残った死体が流れてきて、カラスが死肉を啄んだりします。
ともしび
ガンジスの岸辺。ひとりの老人が死者に線香を手向けるためにマッチを擦る。川風から火を守るように囲うそのてのひらは聖なる彫像のように美しい。
最後に焼け残る背骨の一部。少年の喪主が川に分け入り、青空に向け遠投。まるでスポーツの一場面を見ているかのようだ。
あの人骨を見たとき、病院では死にたくないと思った。なぜなら、死は病ではないのですから。
ニンゲンは犬に食われるほど自由だ
水葬された死者がガンジス川の中洲に打ち上げられ、それを野犬の群れが食う。アリの群れが死んだ昆虫に群がる光景と同じように見えた。その瞬間、わたしはヒトの命の重荷から自由になった。
『メメントモリ』に掲載された、人間の死体を犬が食べるこの写真とキャプションは、発表当時、世間に大きなインパクトを与えました。
現代の日本ではオブラートに包まれている「死」。それがインドでは、日常の一部として身近にあり、あるがままに存在し、隠すべきものでも、忌むべきものでもない。
『印度放浪』や『メメントモリ』を読んでそれを知った私たちは衝撃を受け、それを確かめたいと思い、インドへと旅立ったのです。
メメント・ヴィータ(Memento Vitae)
生を想え(メメント・ヴィータ)
灼熱の太陽の光を受けたくさんの命がギラギラと輝いている。人々の快活な声や、笑顔や、怒りや、驚きや、楽しみや、悲しみや、いっぱいの喜怒哀楽はきっと頭上の太陽の賜物だ。
「メメント・ヴィータ(Memento Vitae)」では、『印度放浪』や『メメントモリ』に掲載されていた、「マハ・クンブメーラ」の写真が展示されていました。
「マハ・クンブメーラ」は、インドのアラハバードで12年に一度開催される沐浴祭。
バラナシの「死」とは対局の、インド人のどぎついほどエネルギッシュな「生」。
インドに行くと、その「生」のエネルギーに圧倒されます。
書行
日本各地にはじまり、中国大陸、そしてインドの路上で書を書いた。インドでは聖地バラナシでいきなり書紙を広げ「大地」と揮毫した。大勢の人々が取り巻きはじめ、大道芸を食い入るように見つめる。警官がわたしを追い払うかと思いきや、逆に交通整理をして書行を見守ってくれた。何よりも驚いたのは携帯で写真を撮っている人が一人もいないこと。誰もが自分の二つの眼で見ようとしているのだ。そのたくさんの生の視線はわたしのエネルギーへと変る。
藤原さん、バラナシの路上でいきなり書を書き始めてしまったそうです!
サドゥ(聖者)が三日月型に割ったスイカをなんと皮の側から食っていた。生まれてはじめてスイカを皮の側から食らう人間を見た。だが、なぜスイカを皮の側から食ってはいけないのか。ふと、自分に問い返す。
あの人がさかさまなのか、わたしがさかさまなのか。
人々の「生きてる」感がすごいインド。あらゆるところで突き抜けている感あり!
それは、生きていくのが大変だからこそなのかも。
チベット
天空(チベット高原)
インド亜大陸の命の渦に巻き込まれながらいつしか天空の方を見る。この世からあの世。たったひとりの天国ツアー。四千メートルのチベット高原。聴覚を失ったかのような静寂。落ち込みそうな深い群青の空。群青に浮かぶ白い雲の惑星。湿度ゼロの山と谷。寡黙な人々の口が唱え続ける呪文。オムマニぺメフム。虚空を見ている僧。千年の寺に一夜を明かすわたしは色も形も音もない夢を見た。
「チベット」のコーナーでは、『西蔵放浪』(1977)や『全東洋街道』に掲載されていたチベットやラダックの写真が展示されていました。
『西蔵放浪』『全東洋街道』を読んで、自分もインドのラダックを訪れました。
圧倒的な静寂。オムマニぺメフム。下界のインドとは真逆の世界がそこにはありました。
ポラロイドが出会ったチベット高原の人々
発売と同時に話題となったポラロイドカメラ SX‐70 をチベット高原に携帯し、土着の人々を二枚ずつ撮り、一枚をプレゼントし、一枚を保管。最新テクノロジーとネイティブの人々の出会いが不思議な緊張感を生む。
クショ・バクラ大僧正
チベットからラダックへの逃避行のとき、民を引き連れ、大蔵経すべてを暗記した偉人。 大僧正のお付きにお願いし、来迎図のような形の演出写真を撮った。
寿命とは、切り花の限りある命のようなもの。
人体はあらかじめ、仏の象を内包している。
光の中で、正気にもどる。
『全東洋街道』で、藤原氏は、ラダックの僧院「リゾン・ゴンパ」に長期逗留します。
その「リゾン・ゴンパ」に自分も訪れました。深過ぎる群青色の空の色。
イスタンブール
イスタンブール
ギリシャから連絡船に乗る。吹雪で対岸は見えない。霧笛とともに船がギリシャの岸を離れ、船は海峡半ばを越える。そのとき聲を聴く。野犬の遠吠えだ。懐かしい感情が過ぎる。ヨーロッパにない野生の聲に耳を傾けながら、そこにアジアの聲を聴いたのだ。やがて吹雪の緞帳りのむこうに薄っすらと尖塔が現れる。モスク。尖塔から流れるアッラー・アクバルの祈りの声が、野犬の遠吠えと交わった。
「イスタンブール」のコーナーは、『全東洋街道』(1981年)に掲載された写真を展示。
アッラー・アクバルの祈りの声が海峡にこだまするイスタンブール。
人間は肉でしょ、気持いっぱいあるでしょ。
『全東洋街道』のトルコの章では、娼館の娼婦のどぎつい写真と、雪の降る寒そうなイスタンブールの風景が印象的。
その後、自分がイスタンブールに訪問したのは、初夏と真夏なのですが、今でも「イスタンブール」というと、雪の降る『全東洋街道』の写真が頭に浮かびます。
逍遥遊記
アジア漢字文化圏の旅
イスタンブール、インド、チベットを経て日本への帰路、ゆっくり、ゆっくりと漢字文化圏を逍遙。その名もなき場所は、日本の匂いがした。
「逍遙游記」(1978年)に掲載されている写真が展示されているコーナー。
台湾、香港、朝鮮半島。
南洋のさざなみ、台湾
入江のさざなみ。青い稲穂の広がり。霧雨の中をさす少年の傘。車窓の向こうをよぎる花々。曇り空の下の猫。 夕まぐれの町。誰もいない食堂。そんな町の安宿に泊まり、自分が無名であることの安堵感を味わう。
ニンゲンの坩堝、香港
排水で淀んだ内海。水面をぬるりとよぎる伝馬船。骨が擦れ合うような櫂の音。テント舟から聴こえる赤子の声。 ビル壁にへばりついた百年の染み跡。笑っている店先の豚の頭。その上に居並ぶ首吊り鳥。賭博の音。上海蟹の屑。ピータンの腐敗臭。蛇のスープ。ビルの窓から投げ捨てられるゴミ。密入国者のバラック。女の立ち食い。虚空を睨んでいる男。寺の壁いっぱいの死者の写真。染みついた線香の匂い。今はなき、あの懐かしい香港のカオス。
子守唄が聴こえる、朝鮮半島
朝鮮半島のゆるやかな山並みのこちら側にはいつも子どもをおんぶした母親がたたずんでいる。母子一体化したその「愛の象」が山裾、河原、田畑、市場や道端、半島のいたるところに、道祖神のように立っている。
1970年代の台湾、香港、朝鮮半島。行ってみたい。。
アメリカ
アメリカ
1989年。モーターホームを操って九ヶ月間、全米を回る。ポップコーンのように軽いカリフォルニア。野卑と無知の広大な内陸。行けど尽きない砂漠の道。たぎるような民族の坩堝ニューヨーク。軽薄な楽園フロリダ。この濃密な旅で、十年分のアメリカを見た。
1990年発表の「アメリカ」に掲載されている写真が展示されているコーナー。
インドを巡った藤原新也が見たアメリカ。『アメリカ』は氏の作品の中でも特に面白かった作品のひとつです。
ハリウッド映画に出てきそうな街道沿いのモーテル、西部の荒涼とした砂漠の一本道、エドワード・ホッパーの絵のようなテンプレっぽい住宅。
香港 雨傘運動
雨傘運動
香港に渡る。早朝から夕方まで現場を駆けまわり、写真を撮る。夜ホテルに帰り、夕食もそこそこに数百カットの写真を編集する。タブレットで写真に言葉を殴り書きする。即ネット配信。その日の出来事がほぼリアルタイムで目に触れることになる。“運動”を伝える最適な方法だった。取材の終わりの日々には学生たちと一体となって活動している気持ちになった。だが中国政府は運動を弾圧し制圧。今日では何事もなかったかのような寒々しい平穏の中で若者たちは失意の日々を送っている。だが、かつてのあの六十年代を彷彿とさせる若者たちの恐れを知らない情熱がそこにあった事実は決して消えることはない。
レノンウォール
雨傘運動の盛り上がりの中で香港市内各所に人々が自分の思いを書いたポストイットが貼り付けられた。壁は メッセージでいっぱいとなった。レノンウォール。人々は壁をそのように呼んだ。
「香港 雨傘運動」のブースでは、2014年に香港で起こった民主化運動「雨傘運動」の取材・撮影の記録が紹介されていました。
藤原氏は、香港民主化運動のリーダーのひとり、周庭さんと毎年のように日本で会っており、周庭さんの写真も展示されていました(写真は撮りませんでした)。
渋谷ハロウィン
ハロウィン
年齢のかけ離れた子らのはじける中、それに参加する。コロナの前はヤクザコスプレで、コロナ時は完全防護服でガスマスクをつけた。参加しなければそれが何かわからないからだ。前年と異なり、コロナ下のハロウィンの熱量は半減していた。― 2015 年 , 2020 年 渋谷(東京)
こちらは、「渋谷ハロウィン」のコーナー。
藤原氏は、ここ数年、渋谷のハロウィンを取材しているそうです。ただの取材ではつまらないからと、自らもコスプレ姿で参加!
ブースでは、取材時の映像が流されていました。
いま
金属バットの家
1980年11月29日。受験戦争の少年が親を殺した。川崎市宮前平。金属バット両親撲殺事件。アジアの旅から帰国後、大型カメラを担いで現場に向かう。台風一過の日本晴れの下、建売広告写真のような手法で金属バットの家を撮る。それはこの家が特殊な家ではなく、誰もが陥る可能性を秘めた「普通の家」だからだ。
死ぬな生きろ
ヒトの命には八十年というタイムリミットが仕掛けられている。たった一回の短い人生。死んだがごとく生きるな、という意を込め「死ぬな生きろ」の書を揮毫し、渋谷スクランブル交差点上のデジタルサイネージに映し出す。その直後、東日本を巨大な津波が襲い、死ぬな生きろの願いはその意味に変化を来たす。それから十年後、ウィルスの蔓延は死ぬな生きろの揮毫を、より切実なものとする。 2010 年 3月 渋谷(東京)
「いま」のブースでは、『東京漂流』(1983年)に掲載されていた「金属バットの家」、渋谷スクランブル交差点上のデジタルサイネージに表示させた「死ぬな生きろ」の書、著名人の写真(小保方晴子、三浦百恵、大島優子、指原莉乃、伊藤詩織)を展示。
著名人の写真は撮影NGでした。
日本巡礼
「日本巡礼」のコーナー。
本当の美しさは何でもない日常にひそんでいる。
東日本大震災
桜
例年満開の時期には観光バスが何台も連なる日本有数の桜の名所。だが桜の周辺は無人だった。はじめて見る花付きと色に圧倒された。帰り道、近くの売店で花を賞賛すると「ここで三十年営業していますが、こんなに色と花付きの良いのははじめてです」と意外な答えが返ってくる。桜に近づき線量計を差し出す。セシウムの値は異常に高い数値をたたき出していた。ホルミシス効果。放射能は一時的に植物などのホルモンを刺激して活性化させるのだ。丘に登り、桜の全容を写す。命の危機の最後を飾り立てるような、不思議な美しさだった。 2011年 三春(福島)
子どもの絵
津波で崩壊した宮古の一軒の家屋に踏み込んだとき、床に散乱する家財の隙間に砂にまみれた一枚の子どもの絵が横たわっていた。“みやこばあちゃん”その余白にたどたどしいひらがな。生きていてほしい。シャッターを押してのち手を合わせる。 2011年 宮古(岩手)
音のない世界
無人の浪江町を歩く。自分の足音が聴こえた。不気味な静寂だ。「シーンと静まり返って、まったく音というものが聴こえないんです」広島の爆心地に最初に入ったカメラマンの言葉を思い出す。通りに霧雨が降ってきた。その霧雨の音さえ聴こえる不気味な静けさ。爆心地の静寂も放射能汚染地区の静寂も人間の行いによって出現した新たな奇妙な自然だ。 2011年 浪江町(福島)
観音
満月が上がった。青い光が破壊し尽くされた地表を照らし出している。 新月の闇夜ならその悲惨な光景を見ずにすんだものをと、一瞬、満月の残酷さを思う。だがしばらく見ていると、その太陽の100万分の1の微光は、優しみに満ちた青い光で打ちひしがれたわたしたちを優しく慰撫してくれている観音菩薩の光のように思えはじめる。
あまねく照らされている
東日本大震災の地上の死の風景を満月が照らし出す。あの世の死者への橋、恐山を朝日が照らし出す。光はあらゆる地上の生と死を照らし出す。わたしの眼に、それは時に残酷な光に、あるいは時に慈悲のような光に見えた。
「東日本大震災」のコーナー。
その場の情景と空気感をリアルにイメージできるような藤原氏の写真と言葉。
強烈な印象を受けました。
寂聴
人は 手折れ 足折れ 滅入り しおれ 悲しみ 不安を抱え 苦にさいなまれ ゆらぎ くじけ うなだれ よろめき めげ 悲しみ 涙し 孤独に締め付けられ 心忘れ 心折れ 打ちひしがれ うろたえ 奈落の底に落ち 夢失い それでも 生き 生き 生きている
「寂聴」のコーナー。
瀬戸内寂聴さんと藤原さんは、数えきれないくらい会い、食卓を囲む仲だったのだそう。
寂聴さんが深刻な病に倒れた時、寂聴さんのために無心で筆を走らせて書いたのが上の書。病床に届けられたこの折帖を読んだ寂聴さんは、目に涙を湛えたのだそう。
書の言葉を読んでいるだけで、寂聴さんが受けた感動が伝わってくるようでした。
死ぬな生きろ
寂聴さんの前で「死ぬな生きろ」の言葉を二枚大書した。人の人生は一回こっきり。死んだがごとく生きるな、との意味が込められている。それを屏風仕立てとし、その一枚を寂聴さんが、ほかの一枚を藤原が所有した。東京と京都でこの言葉が呼応し合い、あまねく人々の上にも降り注ぐことを願ってのことだった。
バリ島
バリの雫
海、山、川、雲、空、そして花々。そのすべてが奇跡だ。地球は美の錬金術師であり、二〇万種もの異なる色とりどりの花々は地球四十六億年の歴史の賜物だ。哺乳類、鳥類、昆虫、植物、それら一億種の生物は、こぞって地球の美の錬金に寄与してきた。だがその一億分の一の生き物に過ぎないヒトが四十六億年をかけて作り上げてきた地球の美をいま壊そうとしている。
「バリ島」のコーナー。
美しく癒されるバリ島の自然の写真。藤原氏は、この美しい自然を撮影しつつ、人間による地球環境の悪化に警鐘を鳴らします。
まゆげ犬はかわいい。まゆげ犬はひっこみ思案。まゆげ犬はひとなつこい。まゆげ犬はめんこい。まゆげ犬はかなしい。まゆげ犬はおくびょう。まゆげ犬は、きき耳を立てる。まゆげ犬は、気持ちを読む。まゆげ犬は、さみしげ。まゆげ犬は、名無し。
藤原氏がバリ島で出会ったという「まゆげ犬」
禁足の森
古代より祭祀の行われる時以外入島一切禁止だという「沖ノ島」
この「禁足の森」に藤原氏は30分だけ入域を許され、写真を撮影したのだそう。
驚くべきことに、この人跡未踏の森は、優れた庭師が作庭したかのごとく、美と秩序に満ちていたのだとのこと。
藤原新也の私的世界
「藤原新也の私的世界」のコーナーでは、藤原氏が生まれた福岡県門司、空襲を避けて疎開した山口県津波敷、小学生の夏休みに訪れた山口県柳井、生家が破産し、無一文で一家が流れ着いた大分県鉄輪の写真、そして、実父の臨終の写真を展示。
藤原氏が描いた絵のコーナーもありました。
藤原氏は、東京藝術大学で油絵を専攻していたとのこと(中退)。
かなり個性的な絵でした。
東京・世田谷美術館にて、2022年11月26日(土)~2023年1月29日(日)に開催された展覧会「祈り・藤原新也」展
『印度放浪』や『メメントモリ』に掲載されたインドの死と生の風景。チベットやイスタンブール、東アジアやアメリカなどの過去の作品や、香港 雨傘運動や渋谷ハロウィン、東日本大震災、バリ島や沖ノ島などの近年の作品などの展示もあり、充実した展示内容でした。
「祈り」をキーワードに、藤原氏がコロナ禍を経験した現代の私たちに向けた、いまの「メメント・モリ(死を想え)」。深く感動させられた展覧会でした。
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