ルーマニア北西部マラムレシュ地方、その中心都市のひとつである「シゲット・マルマツィエイ」から、北東部ブコヴィナ地方の中心都市「スチャヴァ」へ。
このルートを鉄道に乗って一気に向かうことにしました。
「シゲット・マルマツィエイ」から「スチャヴァ」までの直行列車はありません。シゲットから約5時間行った所にある「サルバ」で乗り換える必要があります。
「サルバ」から「スチャヴァ」までは、また更に5時間。長い行程です。
列車でゆくルーマニアの田舎風景
ルーマニアの列車に乗って「スチャヴァ」へ
シゲット・マルマツィエイの駅
午後のシゲットの駅を出発
午後の気だるい陽光を浴びた列車は、ゴトンゴトンとゆっくりとしたリズムを刻みながらシゲット・マルマツィエイを出発しました。
車内はガラガラ。誰一人としていません。
不安になるくらいのガラガラさ加減でした。
列車は山間の田舎風景を進みます。
途中に吊り橋があったり
街を離れた列車は、しだいに起伏の多い山がちな風景の中に入り込んでいきます。
そこには中世さながらのヨーロッパの田舎風景がありました。
山あいにそそり立つ古びた木造教会。緑の木々に囲まれた三角屋根の家が並ぶ美しい村。清らかな小川を跨ぐつり橋、そこを渡る農具を持った人々。
本当に、中世から時間が止まってしまっているかのような風景でした。
列車はいくつもの村を通り抜けていきます。
素朴な建物が並ぶ風景
列車はのんびりと進んでいきます。
サルバの駅で乗り換えの列車待ち
午後8時、列車は「サルバ」に到着しました。
乗換駅ということでそれなりの規模があるということを想像していたのですが、「サルバ」は信じられないくらい小さな駅でした。
2つあるホームには屋根がなく、売店が1つ。駅舎には待合室とトイレがあるだけです。
私と同じように「スチャヴァ」行きの列車を待つ人は4人。
2人の子供を連れた母親。そして、優しそうな表情をした初老の男性です。
駅前には何もありません。真っ暗です。
5月のルーマニアの夜は少し肌寒く感じられます。
寂寥としたこの駅の風情はその寒さを助長しているかのようでした。
時々列車がやってきます。遠くから汽笛の鳴るのが聞こえ、鉄路に車輪が立てる音がかすかに伝わってくるのでそれがわかるのです。
その列車は長大な編成の貨物列車だったり、猛スピードで通過していく急行列車だったり。
私たちはそんな列車が通り過ぎる様子を眺めながら、そこで3時間待ちました。
ルーマニアの列車
夜中の11時、「スチャヴァ」行きの列車が到着しました。
車内は混みあっていましたが、私はあるコンパートメントに入り、そこにいた乗客にお願いして狭いスペースの端っこに座らせてもらいました。
薄暗い明かりが車内を仄かに照らしています。
私はルーマニアの素朴な人たちに混じり、体を窮屈に縮こまらせながらうとうとと眠りに落ちていきました。
スチャヴァの駅
スチャヴァの駅構内
スチャヴァの駅舎
列車が到着したのは、翌朝4時。
私が目を覚ました時、列車は既に、まだ薄暗い「スチャヴァ・ノルド」駅に到着していました。
↓地図(車で移動した場合)
「スチャヴァ」の街を歩く
ルーマニア北東部、ブコヴィナ地方の中心都市「スチャヴァ」(Suceava)。
14〜16世紀には、モルダヴィア公国の首都だった町で、人口は約10万人。世界遺産にも登録されている「5つの修道院」観光の拠点ともなる町で、それなりの都会です。
「スチャヴァ」は、マラムレシュ地方の中心都市「バイア・マーレ」と似て、無機的な建物が並ぶ旧共産圏っぽい雰囲気の町。
「スチャヴァ城」や「聖ゲオルゲ教会」といったモルダヴィア公国時代の建物がいくつか残っていますが、街そのものはそれほど特徴のない感じです。
それと、マクドナルドがありました。
ルーマニアの大きな町にはたいていマクドナルドがあって、地元の人々で賑わっていました。メニューは、日本とそれほど変わらない感じ。
ホテルは、中心部の「12月22日広場」に面した2つ星のホテル「ホテル・スチャヴァ」(トイレ、シャワー付きシングル 565,000Lei:2,084円)に宿泊しました。
中央公園の横にあった教会
街の中心にある中央公園、その横には立派な教会があります。
夕方、私は、ここで日曜のミサが行われているのに出くわしました。
薄暗い堂内に神父の厳かな祈りの声が響き渡っていて、入り口からは、次々と人々がやってきて、順番に十字を切り、神の前で跪いていきました。
老人や老婆だけでなく、若い女性や子供たちも真剣に祈りを捧げていたのが印象的でした。
荘厳な鐘の音、人々の歌う宗教歌・・・。
ここには信仰が生きていました。
「12月22日広場」の様子
夕食は「12月22日広場」に面した食堂でとりました。
ルーマニアの食事はなかなか美味しいです。
私はまず赤ワインを注文しました。甘く飲みやすい、安物ルーマニアワインです。
そして、それを飲みながら、「チョルバ」というルーマニア風スープをすすり、ひき肉の炭火焼料理、「ミティティ」をいただきます。
この「ミティティ」、中東からインドにかけて食べられている「ケバブ」によく似ています。
たぶん、トルコの影響なのでしょう。ルーマニアは、16世紀から18世紀にかけて、オスマントルコの支配下に入っていたのです。
ヨーロッパを脅かしたオスマントルコ
ローマを破り、コンスタンティノープル(イスタンブール)を征服したオスマントルコ。その後の勢いは凄まじいものでした。
彼らは、西アジアから地中海にかけて、数多くの土地を征服していきます。
まず、黒海の北、クリミア半島の「クリム・ハン国」を服属させ、バルカンのセルビア、ボスニア、ヘルツェゴビナを領有。
イランの「サファヴィー朝」を破り、エジプトへと進出。エジプトの「マムルーク朝」を滅ぼして聖地メッカとメディナの領有権を得ます。
そして、最盛期の「スレイマン1世」の治世において、ついにオスマントルコは中央ヨーロッパへと侵攻を開始します。
その後、帝国は1529年の「ウィーン包囲」や、スペイン・ヴェネツィアの連合艦隊を破った1538年の「プレヴェザの海戦」などにより、ヨーロッパキリスト教世界にそこはかとない恐怖を与え続けることとなるのです。
スチャヴァの公園
ヨーロッパに脅威を与え続けたオスマントルコ。
けれども、この帝国は宗教に対してはかなり寛容だったそうです。
それは、オスマン帝国中枢の官僚たちの中にキリスト教徒が多く含まれていたことでもわかります。
オスマントルコは、支配地にイスラムへの改宗を強要しませんでした。
西アジアから中欧、北アフリカまでの広大な世界を支配するためには、ある程度の寛容が必要であったに違いありません。
民族、宗教、異なる文化的背景を持つ様々な人々が暮らす大帝国「オスマントルコ」は、ヨーロッパ世界にはとっても恐れられていましたが、実は、あらゆる民族や宗教が共存するコスモポリタンな帝国だったのです。
その一方、16世紀当時のヨーロッパには宗教戦争の嵐が吹き荒れていました。
カトリックとプロテスタントは、自分たちの教義の正しさを主張し、多くの血が流されたそうです。
当時のヨーロッパ人は、オスマントルコを悪魔のように見ていましたが、オスマントルコ側からすると、ヨーロッパの方が悪魔のように見えていたのかもしれません。
旅行時期:2003年5月
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