ルーマニア北東部、ブコヴィナ地方。
ここには「世界遺産」にも登録されているルーマニアの宝石、「五つの修道院」があります。
修道院は、その外壁が一面のフレスコ画で覆われていて、そこには、迫り来るトルコへの恐怖と、神に救いを求める人々の思いが鮮やかに描かれているのだそうです。
ヴォロネツ修道院へ列車で向かう
ブコヴィナ地方の中心都市「スチャヴァ」(Suceava)
「五つの修道院」観光の拠点となる町です。
早朝、5時26分、私を乗せた列車は「スチャヴァ・ノルド駅」を出発しました。
ローカル列車は、暗がりの丘陵地帯を進みます。
朝早いせいか、車内に人の姿はほとんどいませんでした。
早起きのため、やたらと眠く、ガタンゴトンと列車が揺れる度に、ぐらぐらと何度も倒れこみそうになりました。
そうこうしているうちに、いつの間にか、夜が明けていました。
7時、列車は目的地である「ヴォロネツ修道院」の下車駅、「グラ・フモール」に到着しました。
ルーマニアの列車
「グラ・フモール」の駅前は、見事なほど何もありませんでした。
ただ、バスが一台停まっているだけです。
バスの運ちゃんに、「ヴォロネツまで行きますか?」と聞いてみます。
けれども、運ちゃんは残念そうな顔をしながら首を横に振りました。
仕方ない、歩いていこうか・・・。
私は、とぼとぼと歩き始めました。
そんな「とぼとぼ感」漂う私の姿に同情したのかしないのか・・・。
急に運ちゃんが私を大声で呼び止めました。
「待て!途中まで乗せていってやる」
運ちゃんは途中までタダで乗せていってくれました。
修道院までは5キロ近くもあります。途中まで乗せてもらうだけでもじゅうぶん有り難かったです。
そのうち、バスが何もない田舎道の真ん中でゆるりと停まりました。
私が降りる場所のようです。
「ムルツメスク!(ありがとう)」
お礼を言い、飛び降りる私。
運ちゃんが満面の笑顔で頷きました。
ヴォロネツ修道院への途中で出会った馬車
修道院までの風景。
朝の光に小川の水がきらきらと輝き、木々の黄緑色の新芽がゆらゆらと揺れています。
道中、目立ったランドマークは何もありません。
正真正銘の田舎の風景です。
のんびりと歩いてゆくと、一台の馬車が通りかかりました。
「ブーナ・ディミニャーツァ!(おはよう)」
シルクハットを被ったおじさんと、長靴を履いた若者が声を掛けてきました。
「ヴォロネツは向こうですか?」
私はおじさんに身振り手振りを交え、訊いてみます。
「そうだ。向こうだ」
おじさんは通りの向こうを指差して教えてくれました。
東洋人が相当珍しいのでしょう。後ろに座っている若者がじろじろと私の顔を見ていました。
ヴォロネツへの途中にいた女の子たち
しばらく歩いていくと、かわいい女の子たちに出くわしました。
「何者だろう?」というような目でこちらを見ています。
興味津々の面持ちです。
壁一面にフレスコ画が描かれた「ヴォロネツ修道院」(世界遺産)
ヴォロネツ修道院(世界遺産)
ようやく「ヴォロネツ修道院」(Voroneț Monastery)に到着しました。
木々の生い茂る森の狭間、綺麗に整備された庭の真ん中に、「ヴォロネツ修道院」はありました。
木製の屋根は傘のような大きく、とんがり屋根の尖塔は小さく、ずんぐりとしています。そして、青く見える壁面は、精緻なフレスコ画で埋め尽くされていました。
残念ながら建物は修復中であり、大きな木の枠が所々に架かっているため写真写りはあまりよくありません。
けれども、お目当てのフレスコ画は、しっかりと見ることができました。
この「ヴォロネツ修道院」は、普通の教会とは違ったところがあります。
一般的に教会や大聖堂は、西に正門があります。そこから身廊が伸び、東方のエルサレムに向かった所に祭室があるという構造になっているのです。
けれども、この「ヴォロネツ修道院」の正門は西にはありません。
その理由は、西正面一杯に描かれたフレスコ画「最後の審判」にあります。
この修道院の製作者は、「最後の審判」をきっちりと描き切るため、西には門を付けなかったのです。
門は南側の一番西寄りのところにポツンとありました。
西正面一杯に描かれたフレスコ画「最後の審判」
16世紀、ルーマニア北西部のモルドヴァ公国は、シュテファン大公の治世下、黄金時代を迎えていました。
絶頂期にあったオスマントルコを撃退した大公は、ルーマニア正教を庇護し、各地に美しい教会を建設したのです。
この地方の教会の特徴は、外壁一面に色とりどりのフレスコ画が描かれていること。
その中でもこのヴォロネツ修道院の「最後の審判」は傑作として名高いそうです。
「ヴォロネツの青」と呼ばれる深い群青色を背景に、天使の輪の金色や地獄の業火を表す朱色が鮮やかなコントラストを成しています。
地獄の業火に焼かれている人々はトルコ人です。
他のどの修道院でも、地獄に落ちる人々はトルコ人の姿で描かれるのだそうです。
南側のフレスコ画と入り口
この地方は、後に「オスマントルコ」に支配されます。
「ヴォロネツ修道院」の壁に描かれた絵は、この地方の人々がいかに「オスマントルコ」を恐れていたかということを私たちに伝えてくれます。
そして、彼らがいかに「オスマントルコ」の脅威からの解放を神に祈っていたかということも窺い知ることが出来るのです。
旅行時期:2003年5月
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