ペルーのアンデス山麓に位置するウルバンバ谷の尾根にある、インカ帝国時代の遺跡「マチュピチュ(Machu Pikchu)」
遺跡は断崖絶壁に囲まれており、前方に聳えるワイナピチュ山を背景としたその景観は、まさに”天空の遺跡”
今回は、「マチュピチュ」についてご紹介します。
オリヤンタイタンボから列車で麓の町「アグアス・カリエンテス」へ。
そこで一泊。
翌朝、バスに乗車。
つづら折の山道「ハイラム・ビンガム・ロード」を400mも登っていき、しばらくすると標高2,280mの山の頂上にそれは見えてきます。
「失われた都市」と呼ばれる古代インカの都市遺跡「マチュピチュ」です!
入り口で入場料10ドルを払い、私は遺跡の中に入っていきました。
行ってみたい旅行先人気No1!空中都市「マチュピチュ」は、想像以上にすごい遺跡でした!
「マチュピチュ遺跡」
石垣で造られた段々畑が一面に広がっています。
その横にある階段を駆け上っていくと、高台の上に石造の見張り小屋がありました。
小屋の窓から下の方を見下ろしてみます。
すると、そこには写真やテレビでおなじみの、あの「マチュピチュ」のパノラマが広がっていました!
緑の芝生の中に建てられた石造りの街並み
朝日に光り輝く三角形のワイナピチュの山。
その麓に広がる、複雑な構成を持つ灰色の石組みの街並み。広場の地面や段々畑の上には綺麗に手入れされた芝生が植えられています。
鮮やかな芝のグリーンと石組みのグレーとの組み合わせが、とっても綺麗です。そして、神秘的。
憧れのマチュピチュとの感動的な対面でした!
私は石垣の上に腰を降ろし、しばらくその光景を眺め続けました。
マチュピチュ遺跡とは?
「マチュピチュ」の風景
「マチュピチュ遺跡」は、標高2,940mの「マチュピチュ山」と標高2,690mの「ワイナピチュ山」を結ぶ尾根に造られた遺跡です。
遺跡の標高は約2,400m。麓の町とは約400mの高低差があり、周りは断崖絶壁です。
総面積は約5平方km。
建造は15~16世紀と言われており、現在のところ、インカ帝国第9代皇帝パチャクティの離宮として造られたという説が有力視されています。
「ワイナピチュ山」と「マチュピチュ遺跡」
紀元前3000年頃から続いていたとされるアンデス文明。
その初めての統一王朝がインカ帝国です。
しかし、その最盛期の1532年、帝国はスペイン人の侵入によって、あっという間に滅ぼされてしまいました。
スペインの侵略後、「マチュピチュ」は長らく世界から忘れ去られ、山の中に人知れず放置されてきました。
しかし、1911年、アメリカ人歴史学者ハイラム・ビンガムによって遺跡は発見されます。
そして、そのうち、その存在は世界中に知られることとなりました。
ビンガムは、古い記録を調べ、それを頼りに断崖絶壁をよじ登り、この「マチュピチュ」を発見したそうです。
山の上に広がる壮大な遺跡を発見したときの感動は、言葉では言い表せないものであったことでしょう。
「マチュピチュ遺跡」の建造物と施設
精巧な石組みの建造物と綺麗に整備された芝生
遺跡の中を歩きます。
住居や神殿らしき跡、用水路や水汲み場が狭い土地を上手く利用して造られています。
遺跡の周囲は全て段々畑に覆われていました。
断崖絶壁に造られたその畑は谷の底の方まで続いており、大勢の食料を賄うことができたことを物語っています。
斜面に造られた段々畑
段々畑は全て石組みで造られています
遺跡の総面積の3分の2を占めているという段々畑。
ここでは、神への供物、または、神から下腸されたものとしての農作物が栽培されていました。
標高の高さの違いにより、ジャガイモやトウモロコシ、キヌアやコカなど200種類以上の作物が栽培されていたと考えられています。
石組みの居住地と階段、水路、段々畑
住居や穀物庫の跡
石組みで造られた居住地
「マチュピチュ」は、皇帝の離宮ということもあり、居住人口は最も多い時期でも750人ほどであったと推測されています。
居住区は、貴族、技術者、庶民といった階級別に分かれており、貴族の住居ほど立派な石組みになっていました。
かつては、建物には藁葺きの屋根が載せられていたそうです。
「17の水汲み場」
インカは灌漑用水路を始めとした水の管理がしっかりしていたことでも知られています。
ここは、「17の水汲み場」と呼ばれるところ。
「マチュピチュ」には、遺跡じゅうに石造りの水路が張り巡らされているそうです。
「太陽の神殿」
「太陽の神殿」と呼ばれる建物です。
美しいカーブを描いた石組みが印象的。
ここには、「毒蛇の通路」と呼ばれる、石の中を曲がりくねって開けられた穴があります。どうやって作られたのかは謎だそうです。
「コンドルの石」
こちらは、「コンドルの石」と呼ばれるものです。
「コンドルの石」は、儀式に使用されたとの説が有力です。
また、ここの地下部分は牢獄であったと考えられており、罪人には体罰が与えられていたと想像されています。
「インティワタナ」(太陽を繋ぎとめる石)
こちらは、遺跡の最高地点の高台にある「インティワタナ(太陽を繋ぎとめる石)」
これは、日時計であったと考えられています。突き出た角柱の角は正確に東西南北を指しているのだそうです。
インカは、太陽暦を採用していました。インカは太陽を神として信仰しており、太陽に近いところとして、また、太陽を最も観測しやすいところとして、この場所に建造物を造ったのだと推測されています。
遺跡の入口の門
「大広場」
遺跡の入口の門と「大広場」です。
大広場の向こうの建物は、「貴族の居住区」、広場の手前の高台には、「インティワタナ」と「主神殿」「3つの窓の神殿」があります。
「インカ道」にある「インカの橋」
遺跡の入口近くにある見張り小屋から「インカ道」が伸びています。
断崖絶壁の恐ろしい道を歩くこと20分、「インカの橋」が見えてきます。
この橋の間近までは行くことはできません。遠くから見るだけです。
それにしても、どうやってこんなところに道を造ったのでしょうか。
不思議です。
「マチュピチュ」には、リャマがいました。
遺跡を眺めるリャマ
リャマはたくさんいます。
リャマと「マチュピチュ遺跡」
インカ人はスペインの侵略を逃れこの地に隠れ住みました。
けれども、いつの日か彼らはこの「マチュピチュ」を捨て、更に奥地へと向かっていったと考えられています。
その証拠に、ここからはインカ人が持っていたであろう「黄金」がほとんど発見されていないのだとのこと。
彼らは知られざる秘密の都市「ビルカバンバ」へと旅立っていったのだと考えられています。
「ビルカバンバ」はどこにあるのか。遥かな山の上か、鬱蒼としたジャングルの中か。
私は自分がバックパックを背負い、森の中に埋もれた「ビルカバンバ」の神秘的な遺跡の姿を見つける姿を夢想しました。
午後の「マチュピチュ遺跡」
いや、そこにあるのは遺跡ではないのかもしれません。
森の中に壮大な神殿が建ち並び、黄金に彩られた人々が日常を過ごしているのかもしれません。
そんな彼らに、同じモンゴロイドである私が、「イマイ・ナイ・カシャンキ!(こんにちは!)」と挨拶をします。
にっこりと微笑み返すインカの人々。
そんな夢物語を想像しながら、私は遺跡の中を一日中歩き回りました。
旅行時期:2003年7月
コメント
mar 様
お暇な時で結構ですので、マチュピチュ村(アグアス・カリエンテス村?)
で宿泊なさったホテル名を後学のために、ご教授下さい
BS/TBSの番組の続きなのですが、番組では現地の学者は、交易の一大拠点では
とのコメントを述べていました、いろいろな説が有るようですね。
mesato様
ご訪問ありがとうございます。
アグエス・カリエンテスでのホテルは、駅前の安宿に宿泊しました。
ごめんなさい。名前は忘れてしまいました。