ポーランド南部にある町「クラクフ(Kraków)」
かつて、ポーランド王国の王都だった都市で、ポーランドで最も歴史的な町としても知られています。
人口は約75万人。
8世紀には既に町が成立していたと言われていますが、13世紀にモンゴル軍の襲来により破壊されてしまいました。
「クラクフ」の最盛期は14世紀です。
当時、統治していた「ヤギェヴォ朝」は大いに繁栄し、スラブ人が創った最初の大学である「ヤギェウォ大学」もこの頃創設されたそうです。
ヤギェヴォ大学では、コペルニクスらが学びました。
ヨーロッパ最大の中世の広場「クラクフ中央広場」
クラクフの中央広場と織物会館
「クラクフ」の中央広場は、中世から残る広場としてはヨーロッパ最大といわれています。
広さは約4万平方メートルです。
真ん中に「織物会館」という2階建てのルネサンス様式の建物があります。
かつて、ここは織物を交易する場所だったそうです。
現在では1階が土産物屋、2階は博物館になっています。
左に見えるのは旧市庁舎の塔。
市庁舎そのものは19世紀初頭に取り壊されてしまいました。
「織物会館」の内部
織物会館
織物会館のシャンデリア
16世紀、長らく繁栄していた「ヤギェヴォ朝」が断絶します。
その後、オーストリアの圧迫が強まり、第二次大戦時にはドイツ、そして、ソ連によって「クラクフ」は翻弄されていくことになります。
「クラクフ」は第二次大戦時、ドイツの司令部がありました。
そのせいか、破壊を免れ、町には中世そのままの歴史的建造物が数多く残っています。
もちろん、「クラクフ」は世界遺産に登録されています。
毎時ラッパが吹かれる「聖マリア教会」
広場に面して「聖マリア教会」があります。
1222年の創建、ゴシック様式です。
この教会には有名なお話があります。
かつて、ここをモンゴルが攻めた時、ラッパ吹きが教会の窓から襲撃を知らせました。
しかし、彼はラッパを吹き終わらないうちに喉を射抜かれてしまいました。
その悲劇を悼んで、「聖マリア教会」では、毎時、ラッパが吹かれます。
けれども、ラッパの音は、必ず途中で途切れるのです。
ポーランド栄光の象徴「ヴァヴェル城」
ヴァヴェル城
オーストリア、ドイツ、ロシアと、近隣の大国に翻弄され続けたポーランド。
近世から近代にかけて、ポーランドは苦難の歴史を歩んできました。
この「クラクフ」の町も例外ではありません。
けれども、この「クラクフ」は14世紀の頃、ヨーロッパ最大の王国の王都だったのです。
その栄光の象徴と呼べるのが、「ヴァヴェル城」です。
ヴァヴェル城の門
この「ヴァヴェル城」は、北はリトアニアから南はバルカン半島・黒海に至るまで、東ヨーロッパの大半を占める広大な地域を支配した「ポーランド王国」の王宮であり、文化の中心地でした。
「ヴァヴェル城」はクラクフ旧市街の南、ヴィスワ川のほとりにあります。
レンガ造りの茶色の外観が印象的な、美しい王城です。
ヴァヴェル城内にある大聖堂
ポーランド王国の最盛期は「ヤギェウォ朝」の時代といわれています。
「ヤギェウォ朝」は、1386年から1572年まで7代続きました。
その中でも「ジグムント1世」は、賢帝の誉れ高く、彼の治世は「ポーランドの黄金時代」と評されています。
写真は、ヴァヴェル城内にある大聖堂。
1364年に建てられたこの聖堂はゴシック様式です。後にルネサンス式の礼拝堂が増築されました。
左の高い塔は「ジグムントの塔」。
ここには、周囲8mもある巨大な鐘が吊り下げられています。
右下の金色のドームは「ジグムント・チャペル」。
1533年に完成したポーランド・ルネサンス建築の最高傑作といわれる建物です。
ヴァヴェル城の城内
ヴァヴェル城から見たヴィスワ川
ヴィスワ川とクラクフの風景
ヴィスワ川沿いには「竜の洞窟」というのがあり、たまに火を吐く竜の像が立っています。
昔々、ヴィスワ川には、美しい娘をさらって食べる竜がいました。
人々が恐れをなしていたある時、勇敢な靴職人が、竜を騙してタールと硫黄をしみ込ませた羊の肉を食べさせました。
すると、タールと硫黄がしみ込んだ羊の肉を食べた竜は喉が渇いてしまい、渇きを癒すため川の水を飲み続けたそうです。
そして、川の水を飲み過ぎた竜は、そのうちパンパンになって破裂してしまいました。
竜を退治した靴職人は、その後、王の娘と結婚。幸せに暮らしたのだとのこと。
そんな伝説を表した像だそうです。
クラクフの街並み
旧市街とヴァヴェル城を見た後、「クラクフ」の旧ユダヤ人地区を歩きました。
街をしばらくぶらついた後、「イザーク・シナゴーグ」と「スタラ・シナゴーグ」を訪れます。
「イザーク・シナゴーグ」では、ナチス占領当時のビデオ上映、写真展示がされていました。
「クラクフ」はユダヤ人が多く居住する町としても知られています。
そのせいか、ドイツの占領下に置かれた第二次大戦時には様々な悲劇が生まれました。
あの「シンドラーのリスト」の舞台もこのクラクフです。
町からしばらく行くと「アウシュヴィッツ」があります。
クラクフ
これは旧市街にある「バルバカン」という砦。
15世紀に建造された円形の砦で、ヨーロッパに現存する数少ない「バルバカン」のうち、この「クラクフ」のものは、最大規模なのだそうです。
「クラクフ」のトラム
「クラクフ」の風景
合気道教室のポスター
通り沿いの壁に合気道教室のポスターが貼られていました。
合気道、空手など、日本の武術は海外では大人気!
日本との絡みで言うと、「クラクフ」には、「日本美術・技術センター“マンガ”館」という美術館があります。
この「マンガ」とは、現代の「マンガ」のことではなくて、葛飾北斎の「北斎漫画」のこと。
なんでも、この美術館には、日本の美術品や骨董品の収集家であった「フェリクス・”マンガ”・ヤシェンスキ」の7万点におよぶ日本美術コレクションが展示されているのだそう。
ホロコーストの象徴「アウシュヴィッツ強制収容所」
アウシュヴィッツ強制収容所
クラクフから西に約50キロ、「オシフィエンチム(Oświęcim)」はあります。
「オシフィエンチム」、ドイツ語で「アウシュヴィッツ(Auschwitz)」。
それは人類最大の悲劇である「ホロコースト」の象徴とも呼べる史跡です。
1938年から1945年にかけて、ナチス・ドイツはその占領下の土地からユダヤ人、ポーランド人、ロマ、共産主義者、同性愛者、反体制活動家などを捕らえ、各地に設けられた強制収容所へと送り込みました。
一説によると、この期間に約600万人の人間が命を奪われたとされています。
「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」という文字
ガランとした田舎の風景の中に「オシフィエンチム」は佇んでいます。
私はバスを降り、敷地内へと歩いていきました。
インフォメーションセンターの建物はとても近代的。観光バスが何台も並び、社会科見学の子供たちの黄色い声が響き渡っています。
建物は鮮やかな木々の緑に囲まれていました。
5月の陽光を浴びてきらきらと輝く若葉はとても綺麗です。
わずか半世紀前、ここで大量の人間が虐殺されたのだとは、とても思えないほど穏やかな光景でありました。
入り口のゲートには「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」という文字が掲げられています。
よく見るとBの字が上下逆さです。
これは、この門を作った囚人たちの、せめてもの抵抗の証であるといわれています。
アウシュヴィッツ強制収容所の敷地内
敷地は、厳重に張り巡らされた有刺鉄線によって囲まれています。
当時ここには高圧電流が流されていました。
門から中を覗くとレンガ造りの建物が建ち並んでいます。
囚人棟です。
収容所内には28の囚人棟があり、一時は2万8千人もの囚人が収容されていたこともあったそうです。
アウシュヴィッツ強制収容所
私は敷地内に並ぶ建物の内部を見て廻りました。
殺された人々のポートレート、銃殺される瞬間の写真、描かれた絵。
人々の遺品、鞄、靴、食器、子供の人形、大量のめがね、義手、義足、切り取られた髪の毛の束。
ガス室で使われた毒ガス(チクロンB)の大量の空き缶。
無数の囚人を銃殺したという「死の壁」(壁の前にはたくさんの花が供えられていました)。
立ったまま身動きが取れない立ち牢、飢餓室、そして、ガス室と焼却炉。
連行された人々は即座にガス室へと送られる者、過酷な労働を強いられる者とに選別されたそうです。
全ての持ち物を奪われ、体中の毛を剃られ、番号で呼ばれることとなった人々は、人間性の全てを奪われることとなったのです。
人々は1日1,300カロリーのみの食事で重労働をさせられました。
そして、体力がなくなり、労働をすることが出来なくなった者は、すぐさまガス室へと送られたそうです。
ナチスは民主的に選挙で選ばれた政権だと言われています。
それがいつの間にか暴走し、こういう悲劇を起こすことに誰も口を挟むことができなくなってしまったのが怖いと思いました。
クラクフからブダペストへ向かう列車の車窓
「アウシュヴィッツ強制収容所」
かなり重い気分になる史跡ですが、人類の歴史を知る上で、訪れるべき場所だと思います。
「アウシュヴィッツ強制収容所」へは、クラクフ駅からバスで90分ほど。
バスは1時間に1本くらい出ています。
旅行時期:2003年5月
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