「ブハラ」(Bukhara・Buxoro・Бухара́)は、ヒヴァから東におよそ450Km。ウズベキスタンの国土の中央に位置する町。
「ブハラ」の旧市街には、長い歴史を持つ数々のモスクやメドレセが建ち並んでおり、歴史地区は「世界遺産」にも登録されています。
今回は、ブハラの歴史的なメドレセや廟と街の人々をご紹介します。
ブハラの歴史
この町の歴史は古く、紀元前5世紀の昔から城塞都市が築かれていたという記録が残っているのだそうです。
「ブハラ」の最盛期は9世紀後半から10世紀末まで。
サーマーン朝の支配のもと、東方の草原地帯と西方のアラブ地域を結ぶ交易の中心として、大いに栄え、長大な城壁に囲まれた商業都市として発展を遂げました。
また、王朝の庇護のもと、この「ブハラ」には優秀な宗教者や学者が集まり、科学者イブン・シーナーや詩人ルダーキをはじめとした、多くの人材を輩出する文化的中心地として繁栄しました。
「ブハラ」は、ヒヴァと比べるとかなり大きな町です。
タクシーでこの町にやって来た時、車線の多い道路、大学や政府機関の大きな建物などが目に付き、ヒヴァと違ってここは都会だなと思いました。
ちなみに「ブハラ」の人口は約24万人です(ヒヴァは約6万人)。
ブハラ旧市街のメドレセ巡り
さて、町を歩き回ってみましょう〜。
「ブハラ」の旧市街には、長い歴史を持つ数々のモスクやメドレセが建ち並んでいます。写真は「ウルグベク・メドレセ」
中央アジアで最古の神学校です。15世紀の初頭に建てられました。
ウルグベクは、ティムール朝(1370年 – 1507年)第四代の君主。自身も優れた天文学者・数学者・文人であったそうで、ウズベキスタンには彼の建てた神学校がたくさん残されています。
メドレセには、美しい幾何学文様や植物、星などの装飾が施されています。
建物の上部には、「知識の追求 – すべてのムスリムとムスリマの義務である。」という言葉が刻まれています。
こちらは、「アブドゥールアジス・ハン・メドレセ」
「ウルグベク・メドレセ」の向かい側に建っています。
「ウルグベク・メドレセ」の200年以上後に建てられたメドレセで、装飾はインドやオスマン・トルコの影響を受けているそうです。
「アブドゥールアジス・ハン・メドレセ」のイーワーン(入り口ホール)の鐘乳石飾りです。細かい装飾が見事。
「アブドゥールアジス・ハン・メドレセ」の中庭は、青空バザールになっていました。
細密画が描かれた木細工の数々。
これ、本当に魅力的だったので、いくつか購入してしまいました!
ハート形の小箱が可愛らしいです。
値段は3個で65,000Cym(2,500円)
こちらは楽器屋さん。
ウズベキスタンは音楽に歴史と多様性があることでも知られています。
この楽器は、ギジャクと呼ばれる弦鳴楽器。
4本の弦を持つ胡弓の仲間で、西アジアから中央アジア、ウイグルに至る地域で広く演奏されています。
楽器屋のおじさん、美しい音色を奏でてくれました♪
メドレセの中庭に響き渡る糸のような旋律・・・
2500年の「ブハラ」の歴史を紡ぐ哀愁の響きです。
思わず聴き入り、かつて栄えたこの街の交易の様子に思いを馳せます。
「ミル・アラブ・メドレセ」です。
1536年のティムール朝末期に建てられました。
巨大なアーチと2つの青いドームが印象的なメドレセ。
ここは、ソ連時代に活動を許されていた数少ないメドレセのひとつで、現在でも学生がイスラム法などを住み込みで勉強しているそうです。
「ミル・アラブ・メドレセ」の外壁には、露天の陶器屋さんが品物を並べていました。
ここの売り子は女の子だったのですが、かなりしつこく売り込まれました!
ここを通る度に呼び止められ、買う買わないのやり取りの繰り返し。
女の子、頑張っていたのですが、結局買いませんでした。
「ブハラ」のシンボル、「カラーン・ミナレット」とモスク
高さ46mもある「ブハラ」の街のどこからでも見えるランドマークが「カラーン・ミナレット」です。
1127年にカラ・ハン朝のアルスラン・ハンによって建てられたもので、14層にもなる塔の模様はそれぞれ違った組み方でレンガを積み上げたという凝ったもの。
「ブハラ」の町は、13世紀の前半、モンゴルのチンギス・ハーンによって征服され、町は徹底的に破壊されてしまいました。
街じゅうを壊滅させたたチンギス・ハーンですが、この「カラーン・ミナレット」だけは壊さずに残したのだそうです。
その理由について、面白いエピソードが伝えられています。
ある時、「カラーン・ミナレット」をチンギス・ハーンが見上げた際、彼は被っていた帽子を落としてしまったのだそうです。
落とした帽子を拾い上げたハーンはこう言ったそうです。
「この塔は私に頭を下げさせた偉大な塔だ。壊してはいけない」と。
眉唾なエピソードですが、この「カラーン・ミナレット」を語る上では、これ以上ないエピソード。
「カラーン・ミナレット」に併設されているのが、「カラーン・モスク」
このはモスクは、1514年のシャイバニ朝時代に建設された「ブハラ」で最大のモスクです。
何と!1万人の信者が同時に礼拝できるそうです!
「カラーン・ミナレット」とモスクは、先ほどの「ミル・アラブ・メドレセ」の向かい側にあります。
「カラーン・モスク」と「ミル・アラブ・メドレセ」の間の広場。
子供たちが遊んでいました。
国内屈指の観光名所だというのに、とても静かです。
「カラーン・モスク」の夕暮れ。
「カラーン・ミナレット」とモスクが橙色に色づき始めます。
「ブハラ」が一番美しく見える時間帯です。
夕陽を浴びたモスクの美しさにうっとり。ウズベク少女も夕陽を浴びてニッコリ!
夜のブハラの街。ライトアップされた「ナディール・ディヴァンベギ・メドレセ」
こちらは、旧市街の中心にある「ナディール・ディヴァンベギ・メドレセ」。夜の様子です。
このメドレセは、珍しいメドレセとして知られています。
正面入り口に、鳳凰と鹿、そして、中心にある太陽には人の顔が描かれているのです。
「偶像崇拝って、イスラムの教義に反する筈なのにどうして?」って思いますが、このメドレセ、建設当初はイスラムの建物でないキャラバンサライ(隊商宿)として建てられたそうで、途中で急遽メドレセ(神学校)に変更になったため、偶像が描かれてしまったということなのだそう。
途中で壊されなかったのが不思議です。
ブハラ発祥の地に建つハンの居城「アルク城」
こちらは、歴代のブハラ・ハンが住んでいたという「アルク城」
この場所は、ブハラ発祥の地だそうで、その歴史は2000年以上前に遡るのだとのこと。
モンゴル帝国のチンギス・ハーンがこの城に攻め込んだ際、人々が立て篭もったのが、この「アルク城」。ハーンにより城は破壊され、多くの町民が虐殺されたと言われています。
「アルク城」は、その後も幾度となく破壊と再建が繰り返されており、現在ある城は18世紀に建てられたものであるとのこと。
「アルク城」の前には、「レギスタン広場」があります。
この広場では、ハンに反抗した人々を見せしめに斬首したり、鎖につないだ囚人を晒し者にしたりといったことが行われていたそうです。
城内は4ヘクタールもの広さがあり、内部にはモスクや謁見の間、ハンの居室などが残されているそうですが、あいにく訪れた時は工事中であるとのことで、中に入ることはできませんでした。
池に映った柱が見事な「バラハウズ・モスク」
アルク城からさらに西に進むと「バラハウズ・モスク」があります。
モスクの前面はテラス状になっており、クルミ材で作られた20本の柱が並んでいます。
その20本の柱がモスクの前にある池に映る様子がとても魅力的。
柱には彫刻が施されており、天井や壁面はカラフルに彩られています。
「バラハウズ・モスク」は1712年の創建。
ハン専用のモスクで、祝いの日、ハンは「アルク城」から絨毯の上を歩いてここまで来たといわれます。
「バラハウズ・モスク」には真鍮のお皿を売る店とその工房がありました。
カンカンと工具を叩いてお皿に模様を彫り込む青年。
静かなモスクに、その音だけが延々と響き渡っていました。
眼病に効くと言われる泉が湧きでる「チャシュマ・アイユブ」
「バラハウズ・モスク」から、さらにさらに西へ進むと「チャシュマ・アイユブ」が見えてきます。
「チャシュマ」は泉、「アイユブ」は旧約聖書に出てくる預言者ヨブのことだそう。
人々が水不足で苦しんでいたとき、預言者ヨブがここを杖で叩いたら泉が湧き出たという伝説があるため、多くの参拝者を集めている泉です。
泉が湧き出たのは12世紀のこと。建物自体も14世紀の創建で、とんがりドームと丸屋根ドーム、明かり窓のあるドームが並ぶ面白い形をしています。
湧き出す泉を飲むおばさんたち。
泉は現在でも湧き出しています。
この泉の水、眼病に効くという噂が広まり、かつては多くの人が水汲みに訪れたそうですが、疫病の流行が原因で、現在は水汲みは禁止されてしまったのだとのこと。
中央アジア最古のイスラム建築「イスマイール・サーマーニー廟」
こちらの印象的な建物は「イスマイール・サーマーニー廟」
「チャシュマ・アイユブ」からさらに西へ向かったところにあります。
この建物は、中央アジア最古のイスラム建築なのだそう。造られたのは、892年から943年にかけて。
9世紀に中央アジア西南部とイラン東部を支配したサーマーン朝の創始者、イスマイール・サーマーニーが父親のために建立した廟であると伝えられています。
材質はすべてレンガで造られており、レンガの組み方によって様々な模様が形作られています。
強い日差しがレンガの凹凸に陰影を与え、くっきりとしたコントラストを浮かび上がらせていました。
ブハラ市民の憩いの場「イスチロハット公園」
「イスマイール・サーマーニー廟」は、「イスチロハット公園」の敷地の中にあります。
「イスチロハット公園」は、観覧車や回転する遊具が並ぶ、ブハラ市民の憩いの場。
たくさんの子供たちが遊んでいました。
「イスチロハット公園」をぶらぶらしていると、二人組の少年がバック転を披露してくれました。
なかなかのバック転。見事な身体能力です!
その様子をデジカメで動画撮影し、見せてあげると少年たち大喜び!
少年たちは、遊園地の遊具を動かす係だったようです。
「ただで乗せてやるよ」
と言われ、遊具に乗せてもらいました♪
こちらが、乗せてもらった遊具です!
高速でぐるぐる回転しながら上下動する乗り物。
日本の地方都市の遊園地なんかによくある乗り物です。
「ブーッ!」とブザーが鳴り、遊具が動き始めます。
回転のスピードは結構早く、かなりの高さまで激しく上下動したので結構な怖さ。
乗り物から降りたとき、少年たちが、「どうだった?」と聞くので一応「Good!」と言っておきました。
「イスチロハット公園」には、様々な遊具がありました。
どれも素朴な遊具でしたが、子供たちは、かなり楽しそうにキャーキャー言っていました!
静かなメドレセ「アブドゥーラ・ハン・メドレセ」
イスチロハット公園の南には、「アブドゥーラ・ハン・メドレセ」と「モダリ・ハン・メドレセ」が並んで建っています。
写真は、「アブドゥーラ・ハン・メドレセ」
あまり特色もない普通のメドレセですが、観光客が全くおらず、静かな空間であるのがよかったです。
4本のミナレット「チョル・ミナル」
旧市街を東に向かうと、「チョル・ミナル」が見えてきます。
「チョル・ミナル」とは、「4本のミナレット」という意味です。そのまんまです。
創建は1807年。もともとは、メドレセの門番小屋として建てられたそうですが、メドレセそのものは既に無くなっています。
ミナレットは登ることができ、内部には土産物屋がありました。
4本のミナレットの頭に載ったトルコブルーのドームが印象的な、フォトジェニックな建物です。
「チョル・ミナル」へと向かう路地にいた少女たち。
木陰の雰囲気の良い「チャイハナ」でひと休み
こちらは、「アルク城」の向かいの緑地帯にある「チャイハナ」
のんびりとした雰囲気の良い、木陰のチャイハナ。
ポットで出てきたチャイがうまい!
癒されます。
こちらは「日本センター」
日本語を話せるブハラの学生たちとお話ししてみようと思ったのですが、館内にはほとんど人がいませんでした。
センターの壁には、日本語を学習した学生たちの感想や、日本留学の案内のチラシが貼ってありました。
旅行時期:2012年4月〜5月
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