「イタリア」を旅しました。
フランスのマルセイユからモナコを通過し、中世からの港湾都市「ジェノヴァ」へ。
世界最大のゴシック建築のある「ミラノ」を経由し、ゴンドラの浮かぶ水の都「ヴェネツィア」。ルネサンスが開花した花の都「フィレンツェ」やパリオ祭で賑わう「シエナ」を抜け、永遠の都「ローマ」とカトリックの総本山「バチカン」。ヴェスビオス火山を望む「ナポリ」と噴火により消失した「ポンペイ」の遺跡を巡って、ギリシャへと抜けました。
マルセイユから列車を乗り継ぎジェノヴァへ
朝8時15分、アルルからマルセイユ行きの列車に乗り込み、東を目指します。
マルセイユまでは約1時間。そこでニース行きの列車に乗り換えイタリア国境へと向かいます。
車窓の右手にはコート・ダジュールの水色のビーチが広がっていました。
トップレスの女性を含めた大勢の白人たちがヴァカンスを楽しんでいる様子が見えます。
カンヌを過ぎ、ニースでイタリア国境の町ベンチミグリア行きの列車へと乗り換えルト、風景はさらにリゾート度を増し、美しい家並みやプライベートビーチ、椰子の並木、ヨットハーバー、色とりどりのパラソルなどで溢れていました。
モナコを過ぎ、しばらくして国境の駅ベンチミグリアへ到着。
ここは既にイタリアです。
あまりに美しい海岸を眺めてきたので、一気にジェノヴァへ行ってしまうのが惜しくなってきてしまいました。
滞在するかどうするか考えをまとめるために、列車を一本遅らせることにします。
駅のレストランで食事をしましたが、イタリアはフランスよりも物価は安いようです。
駅からビーチへ向かって歩くと、金持ちそうな大勢の白人たちの姿がありました。
ここはイタリアン・リヴィエラです。
そんな中、シャネルのバッグをたくさん抱えた黒人の売り子たちの姿が印象に残りました。
結局、私は自分に不釣合いなこのリゾートをスルーすることにしました。
やってきた列車に乗り込み、ジェノヴァへと向かいます。
サン・マロを始めとしたリヴィエラをいくつも通り抜け、列車は夕方の「ジェノヴァ」に到着しました。
ジェノヴァは雨模様。駅のインフォメーションセンターで宿を探してもらい、久々にユースではない「ひとつ星」のホテルに宿泊することに決めました。
「ジェノヴァ」での素敵な出会い
「ジェノヴァ」の町では素敵な出会いがありました。
翌日の午前中、私はアクアリウムを見学した後、埠頭でぼんやりと海を見ていると、側にいたイタリア人のおじいさんが話し掛けてきたのです。
彼は英語が話せないのでお互いの意思があまり通じません。けれども、じいさんはそれでも話し掛けてきて、いろいろな物のイタリア語の名前を教えてくれました。
そこに英語を話せそうな女性が通りかかります。
じいさんは彼女を呼び止め、私とじいさんの間に座るように促しました。
はじめは断っていた彼女でしたが、しばらくするとじいさんの催促に負け腰を降ろしました。
彼女の名はクリスティーナ。彼女が通訳となり、会話が始まります。
この町にどれくらい滞在するのか?イタリアは初めてか?イタリアのどこを見たか? 日本で何をしているのか?どこに住んでいるのか?次はどこへ行くのか?
いろいろ話した後、じいさんは「帰る時間だ」と言いました。
そして、彼女に何事かを話し、さよならを言って去っていきました。
「Very Kind People」
彼女はじいさんをこう評しました。
たぶん、じいさんは、「この日本人にジェノヴァを案内してあげなさい」とでも言ったのでしょう。
彼女は私にジェノヴァを案内してくれることになったのです。
はじめに彼女は「ネプチューン号」という海賊船を紹介してくれました。
船からは港を守る城壁が見えます。港の前にある建物は、中世の頃、ジェノヴァの銀行だったのだとのこと。
当時のジェノヴァはヨーロッパでも有数の商業都市でした。
現在のジェノヴァは人口7万。山に囲まれて土地が狭いため、この町は建物が高層化したのだそうです。
高い塔がいくつもありますが、かつては14もの塔が建っていたのだとのこと。
次に案内してくれたのはジェノヴァ最古の教会。11世紀の建造だそうです。
大戦中、ここにイギリスの爆弾が落ちたのですが、不発だったそうです。
「奇跡だ」と彼女は言っていました。
「ジーザス・チャーチ」というルネサンス様式の教会にも行きました。
この教会にはリューベンスの絵が2枚あります。
写真はまた別の教会で「サン・ロレンツォ教会」というストライプのファサードが美しい教会。
そこまで案内し終わると、彼女は「仕事なのでもう行かなければいけない」と言い、去っていきました。
忙しそうなのにわざわざ案内してくれた彼女と、彼女に案内を頼んだあのじいさんに本当に感謝です。
宿泊したホテル「HOTEL MAYOR」です。
近くの酒屋でワインを一瓶買い、ちびちびと飲みながら地図を広げ、 次はどこへ行こうかなどと思いを巡らせました。
「ミラノ」で世界最大のゴシック建築「ドゥオーモ」を見る。
「ジェノヴァ」から東へ。「ミラノ」に到着しました。
ミラノは、でっかいドゥオーモが町の中心に聳え立っています。
このミラノのドゥオーモ(イタリアでドゥオーモとは、町を代表する教会堂のこと)は世界最大のゴシック建築。14世紀から、約500年という長い歳月をかけて建造されたのだそうです。
印象はとにかく「でかい」のひとこと。その迫力に圧倒されてしまいます。
ドゥオーモは屋根の上に上ることもできます。
ドゥオーモには135本の尖塔があるそうで、そこには無数の聖人たちが立っています。
ミラノの街を見下ろす聖人たちです。レースのような繊細な装飾が見事。
北イタリアの中心都市であるミラノの人口は約130万人。ロンバルディア州の州都であり、イタリア最大の商業都市としても知られています。
ミラノといえば、ミラノコレクションをはじめとするファッションの町としても有名です。町にはお洒落な女性がたくさん闊歩しておりました。
また、世界で最も有名な歌劇場「スカラ座」があることでも知られています。
ドゥオーモの前は美術館になっており、ちょうど私が訪れた頃、「ピカソ展」が行われていました。
ドゥオーモの屋根から見た、ピカソ展を待つ長蛇の列です。
イタリアも日本も同じで、巨匠の展覧会はいつでも大混雑です。
ドゥオーモ内部のステンドグラスです。
パリやシャルトルといったフレンチゴシックのものに比べると、見た目の雰囲気も歴史的価値もちょっとイマイチ感あり。
これは「スフォルツェスコ城」です。ミラノ公爵フランチェスコ・スフォルツァによって1450年に建造された平城です。
内部は博物館・美術館になっており、ミケランジェロの最後の作品「ロンダニーニのピエタ」も展示されています。
また、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会はダヴィンチの名画「最後の晩餐」もあります。
遠近法の技法を取り入れた、世界的に有名な宗教画です。
私が訪れた時は修復中で、現在のように綺麗にクリーニングされた絵ではなかったのですが、修復家たちが作業をしている様子を見学することができました。
ミラノ中央駅のプラットホームです。
ミラノは駅が立派なことでも有名です。駅舎の写真がないのが残念なのですが、まるで美術館や博物館のような駅舎でした。
この駅の食堂で食べたペンネアラビアータがうまかったのを思い出します。
いつか水没してしまう美しい水の都「ヴェネツィア」
イタリア北部、ヴェネト州の州都であり、中世には地中海の制海権を握った海軍国家ヴェネツィア共和国の首都でもあった「ヴェネツィア」
最近の地球温暖化の影響により、ヴェネツィア湾で起こる「アクア・アルタ(高潮)」の洪水の水位が年々高まっているといわれます。
このままでは、この町はいつか水没してしまう運命にあるのです。
けれども、そんな運命こそが、この町の美しさをさらに高めているような気がしてなりません。
写真は鐘楼(カンパニーレ)から眺めたサン・ジョルジョ・マッジョーレ島です。
ビザンティン様式を代表する建築、サン・マルコ寺院です。
内部は絢爛な黄金色の印象。この寺院のあるサン・マルコ広場はヴェネツィア本島の中心のひとつです。
ヴェネツィアはいくつもの島から構成されていますが、この本島自体も無数の島から成っています。
本島はイタリア半島から長い橋で結ばれており、列車や車で島まで辿り着くことができます。島内は車の使用は不可。運河が網の目のように張り巡らされており、移動は舟が主体です。
もともとヴェネツィアはゲルマンやフン族の侵入を逃れた人々が、湿地帯に逃げ込んだのがはじまりで、それがイスラム諸国との貿易や十字軍の遠征などの影響により発展し、地中海最強の商業国家となっていきました。
しかし、大航海時代の到来と共に地中海交易の重要性は薄れ、ヴェネツィアの繁栄も終息を迎えることとなったのです。
「パラッツォ・ドゥカーレ」です。ゴシック風のリズミカルなアーチの美しさが名高い建物。
ここはかつて、ヴェネツィア共和国の総督邸でした。
ゴンドラの浮かぶ運河です。ゴンドラ漕ぎはゴンドリエーレと呼ばれ、かつてはヴェネツィアの交通の主力でしたが、現在ではその地位をモーターボートに取って代わられました。
現在稼動している200~300艘のゴンドラはほとんどが観光用です。
これは「カ・ドーロ」
かつては宮殿でしたが、現在はフランケッティ美術館となっています。
「パラッツォ・ドゥカーレ」と同様ゴシック風のアーチが印象的です。
街角にあった傘屋の看板です。 ドラゴンが傘を咥えています。
ジュデッカ島から見たヴェネツィア本島です。
ヴェネツィアのユースはこのジュデッカ島にありました。海の見える気持ちのいい立地ですが、本島までわざわざ船で行かなければならないのが面倒です。
こういう夕暮れ風景を眺めながら旅仲間たちとビールを飲みました。
ルネサンスが生まれた花の都「フィレンツェ」
14世紀から16世紀にかけてイタリアを中心として起こった古典古代文化の復興運動。それが「ルネサンス」です。
ルネサンスは北イタリア、トスカーナ地方の中心都市「フィレンツェ」において、まず花を開かせたといわれています。
中世カトリック教会の権威のもとで、長らく忘れ去られていた「ギリシャ・ローマ」の価値を再発見し、「神」からの視点ではない「人間」からの視点を取り戻そうとした「人文主義」の考え方が、ルネサンスの精神の根本を成しています。
宗教による箍をゆるめ、個人の自由な思想や価値観を認めるルネサンスは、後世に大きな影響を与えた偉人や、現代でも愛好される優れた芸術品を数多生み出しました。
「神曲」のダンテ、「デカメロン」のボッカチオ、「君主論」のマキャベリ。そして、ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ……。
写真は「ジョットの鐘楼」から眺めたフィレンツェの街。
このフィレンツェにおいてルネサンスが発展した最大の要因が、メディチ家の存在です。
14世紀に銀行家として台頭したメディチ家は、15世紀半ばにフィレンツェの実権を握りました。
メディチ家はルネサンス文芸を愛好し、多く芸術家たちのパトロンとして惜しみない援助をしたと言われています。
「夜」と「昼」(ミケランジェロ)メディチ家礼拝堂
「ヴェールを被る婦人の肖像」(ラファエロ)パラティーナ美術館
「小椅子の聖母」(ラファエロ)パラティーナ美術館
花の都フィレンツェの象徴「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」(花の聖母教会)です。
「ドゥオーモ」と呼ばれる聖堂と「ジョットの鐘楼」「サン・ジョバンニ洗礼堂」という三つの建物から構成されています。
「ドゥオーモ」は、フィレンツェの街のどこからでも見えるランドマークです。
イタリアンゴシックとルネサンス様式のミックスで、巨大な八角形の大クーポラ(円蓋部分)はブルネレスキによる設計。クーポラの高さは100mを超えます。
白と緑とピンクの大理石によって外壁が装飾されており、キリスト教の聖堂としては世界で4番目の大きさであるとのこと。
内部の装飾は簡素ですが、その収容力は高く約3万人が一同に礼拝をすることができるのだそうです。
「ジョットの鐘楼」は高さ84m。464段の階段を昇ることが可能で、上からはフィレンツェの街並みを見渡すことができます。
これは「サンタ・クローチェ教会」
アッシジを本拠とするフランチェスコ会の教会で、内部にはミケランジェロやガリレオの墓があることでも有名です。
また、例年6月になると、この教会前の広場で「カルチョ・ストリコ」という古代サッカーが行われます。
「カルチョ・ストリコ」は、16世紀、神聖ローマ皇帝「カール5世」の軍隊に包囲されていたフィレンツェで、市民の士気を高めるために行われたのが始まりだとされる競技で、1チーム27人、1試合50分で行われます。
基本的なゲーム内容は現代のサッカーと変わりませんが、格闘要素が強く、観客は選手の荒れ狂う様を観て楽しむのだとのこと。
「ヴェッキオ橋」はアルノ川に架かったフィレンツェ最古の橋。
橋の両側には彫金細工や宝石を売る店がびっしりと並んでいます。
二階部分にはウフィッツィ宮とピッティ宮を結ぶ「ヴァザーリの回廊」があり、通りを歩いていると橋であるとは気づかないほどです。
十字軍の聖地への遠征に端を発する東方貿易は、市民の力を強め、自由の気風を求める「ルネサンス」を生み出しました。
また、同時期にイスラム世界から「活版印刷術」「羅針盤」「火薬」が流入し、産業の発展を促しました。
ルネサンス時代のこれらの発明は、後の世界史を大きく動かしていくこととなります。
「活版印刷術」はルターによる宗教改革を引き起こし、「羅針盤」は大航海時代をもたらし、「火薬」はヨーロッパが世界を制覇することに貢献しました。
現在の欧米文化の隆盛の端緒はこの「ルネサンス」にあるのです。
「シエナ」で見たパリオ祭
イタリア北部、トスカーナ地方にある「シエナ」の町。
人口約54000人のこの町は、フィレンツェと並ぶルネサンスの中心だったそうです。中世の佇まいを残した旧市街は世界遺産にも登録されています。
シエナの町は扇形をした「カンポ広場」を中心に広がっています。
写真は広場にあるププリコ宮のマンジャの塔。
シエナはゴシックの町としても知られています。この町ではゴシック後期の国際ゴシック様式が栄えました。写真のドゥオーモはその代表。
重厚で神秘的なフレンチゴシックとはまた違った、繊細さと気品が感じられます。
ドゥオーモの内部です。 黒と白のストライプの装飾が美しいです。
「パリオ祭」です。
パリオ祭は1147年から約800年も続いているといわれる祭りで、毎年7月2日と8月16日に行われ、シエナ中が熱狂の渦に包まれます。
祭りのメインは騾馬を使った競馬レース。シエナは17のコントラーダと呼ばれる地区に分かれていますが、その対抗戦として競馬レースがカンポ広場で行われるのです。
午後、それぞれのコントラーダの人々が中世の格好をして街を練り歩き始めました。
パリオ祭の1回のレースでの出走枠は10。そのため、抽選を行い、出場コントラーダを決めるのだそうです。
コントラーダはそれぞれのカラーとシンボルマークを持っています。
これは象のチーム。臙脂色がチームカラーです。
こちらはホタテのチーム。カラーは青です。
これは黄色と赤と白の羊チームの旗です。
他にもカタツムリやフクロウ、芋虫、ヤマアラシ、ユニコンやキリンなど、様々なシンボルを持ったチームがありました。
祭りが始まりました。
夕方4時、カンポ広場は人で埋め尽くされます。
始めは騎馬隊や楽隊の行進。その後、各コントラーダが続きます。
レースは7時の開始なので、始まるまで約3時間。人々は広場の中で芋洗い状態で、または、広場を取り囲む建物の窓から優雅にグラスを傾けながら待つのです。
その間、マンジャの塔の鐘が延々と鳴り響いておりました。
コントラーダの列の中にはそれぞれ旗手がおり、行進の途中で旗を空高く舞い上げます。
高く舞い上がると拍手喝采!
私は広場の真ん中から観ていたのですが、人が多過ぎてほとんどパレードの様子が見え図、旗が舞い上がった時だけ、こうして観ることができました。
私の近くにはヤマアラシ地区の人々が大勢おりました。
レースはあっという間でした。1周300mの広場を3周するだけなのです。
レースなど全く見えない状態で、人々とおしくらまんじゅうしている間、ほんの1.2分で決着が着いてしまいました。
写真はレース後の様子です。コースに観客たちがなだれ込みます。
優勝はガチョウコントラーダでした。
優勝馬にガチョウ地区の人が喝采を浴びせています。
ガチョウ地区の人々、大喜びです。
シエナの人にとってはサッカーよりも何よりも、この「パリオ祭」が大事。びっくりするくらいの熱狂ぶりでした。
それにしても3時間に及ぶ混雑の中での棒立ちと、その後の何も見えない1分間のレースの観戦は、かなり疲れました。
“全ての道はローマに通ず”永遠の都「ローマ」
世界史上最も偉大な都と言ってもいいでしょう。永遠の都「ローマ」
紀元前から約1200年もの長きに渡って続いた古代ローマ文明は、その後の世界の形成に非常に大きな影響を与えました。
ローマの版図は北アフリカ、中東を含めた地中海全域に渡りました。それらに住む異なった民族にローマのブランドとしての「ローマ市民権」を続々と与え、それぞれの植民都市はローマ風の建築や文化で埋め尽くされました。
写真は「コロッセオ」。ローマの円形闘技場です。
ローマ風の生活の中には、円形闘技場や劇場、公共浴場が欠かせませんでした。
これらの建造物はスペインやフランス、アルジェリアやリビア、トルコやヨルダンに至るまで、ローマ植民都市じゅうに建設されたのです。
ローマは1200年の歴史の中で、その政体を王政、共和政、帝政と国家の規模に応じて変えていきました。
ローマ帝国の長い歴史の間、いろいろな問題や危機が起こりますが、その度に様々な政治家や賢帝が現れ、国家を改革していきました。
最初迫害されていたキリスト教も、311年には公認され、そのうち国教となっていきます。
カラカラ浴場です。
ローマの遺跡を見ていていつも思うのは、その建造物に宗教的な色彩の強いものが少なく、娯楽的な施設が多いということ。
闘技場、劇場、浴場、全て市民の娯楽のための施設です。
他の文明ではこんなことはなかなかありません。そういう点から見ても、ローマ文明というのは現代文明と似ているところがあると言えるのかもしれません。
現代文明が滅びたら、発掘されるのは娯楽施設ばかりです。
「全ての道はローマに通ず」「ローマは一日にしてならず」 「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」
日本人の私ですらこの言葉が普通に出てくるほど、ローマの文明・思想は世界に影響を与えています。
「賽は投げられた」「ブルートゥス、お前もか」 というのもあります。
カトリックの総本山。世界最小の国家「バチカン」
カトリックの総本山「バチカン」は、イタリア、ローマ市に囲まれた世界最小の国家です。
面積は0.44km²で東京ディズニーランドとほぼ同じ。バチカン国内には、サン・ピエトロ大聖堂、バチカン宮殿、バチカン美術館などがあります。
2004年時点での人口は921人。国民はほとんどが聖職者で、また、男性であるそうです。
首長はローマ教皇で、ローマ教皇庁によって統治されています。
サン・ピエトロ大聖堂は、ここが使徒ペテロが殉教した場所であるという理由でその名が付けられたそうです。
大聖堂の始まりはローマ時代。 ローマ皇帝コンスタンティヌス1世の命により、330年に建設が開始されたのだとのこと。完成当初の聖堂は5廊式のバシリカでした。
あの特徴的なドームが造られたのはルネサンス期のこと。ブラマンテやラファエロ、ミケランジェロといった錚々たる面々が建築に携わり、それぞれの設計者によって様々な改変を重ねながら、聖堂は主ドームを中心とした集中式プランに改築されたのだそうです。
その後、大聖堂はバロック期に実用的な理由から再びバシリカ形式に改築され、ベルニーニによって大聖堂前の列柱廊を持つ楕円形広場(下写真)も造られました。
写真はサン・ピエトロ大聖堂の内部です。ここにはミケランジェロの傑作「ピエタ」があります。
楕円形のサン・ピエトロ広場は4列に並んだ284本のドーリス式の円柱で囲まれています。
広場の真ん中には約25mの高さを持ったオベリスクが立っています。これは、西暦37年に時のローマ皇帝カリギュラがエジプトから運んできたもので、16世紀にローマ教皇シクストゥス5世によって、この場所に移されたのだそうです。
このオベリスクにはヒエログリフは彫られてはいません。
スイス人衛兵です。バチカンに軍隊はなく、110人のスイス人衛兵が警備を行っているのだそうです。
スイス人傭兵は中世には無類の強さを誇ったといわれ、それに目を付けた教皇ユリウス2世が、彼らを採用したというのが始まりであるとのこと。
カラフルな制服のデザインはルネサンス風。何だかピエロみたいです。
バチカン美術館です。ものすごい天井画です!
もちろんこれは序の口で、美術館内にはシスティーナ礼拝堂にあるミケランジェロの天井画「創世記」や「最後の審判」。署名の間にあるラファエロの「アテネの学堂」など、名作中の名作があります(撮影は不可なので写真はありません)。
そして、それ以外にもキリスト教美術館やエトルリア美術館、エジプト美術館や民族美術館、馬車美術館など様々な美術館がバチカンにはあります。
バチカン美術館から見たローマの街。
ローマには他にもパンテオンやサンタンジェロ城、スペイン階段やトレヴィの泉、真実の口といった有名な名所があります。
“ナポリを見てから死ね”とも言われる美しい町「ナポリ」
南イタリア最大の都市「ナポリ」
ナポリへはローマから列車で到着しました。
ナポリは楽しみにしていた町のひとつです。風光明媚なのもさることながら、イタリアいちうまいと言われるピッツァ「マルゲリータ」の本場でもあるからです。
けれども、それと同時に最も不安な町でもありました。
「カモッラ」と呼ばれるマフィアの力が今でも強く、町の治安は相当に悪いと聞いていたからです(写真は丘から見たナポリの風景。向こうにヴェスビオス火山が見えます。ケーブルカーで登り、丘からは街へと下る階段があったのですが、誰も歩いておらず、恐ろしげだったので、再び高い金を払ってケーブルカーで降りました)。
ナポリの駅を降りた瞬間、治安が悪いという情報は正しかったのだと、私は肌で実感することができました。
特別何か事件に遭ったというわけではありません。
ただ、町に漂う「空気」がナポリは最悪で、駅から見た風景、そこに配置された物、うろついている人、全てに殺伐とした空気が漂っていたのです。
私はびびりました!
そのため、この町ではほとんど観光をしていません。
近郊にあるポンペイを訪れ、マルゲリータを食べただけ……。
今考えるとかなり勿体ない話なのですが、その当時の私はこの町の醸し出す空気に恐々としていたのです。
「ナポリを見てから死ね」という言葉がありますが、「ナポリを見て死ぬかも……」と大袈裟にも考えていたのです(写真はヌオーヴォ城。フランス支配時代、13世紀の建造です。)
紀元前6世紀、ナポリはギリシア人の植民市として造られました。町の語源はギリシャ語で「ネアポリス(新しい町)」
以後、ナポリはローマ、ビザンツ、ノルマン、神聖ローマ、フランス、スペインなどの支配を受け続け、イタリアに併合されたのは1860年のことだそうです。
現在のナポリは、イタリアカンパニア州の州都でナポリ県の県庁所在地ともなっており、人口は約100万。近郊に世界的な遺跡である「ポンペイ」や、青の洞窟で有名な「カプリ島」などがあり、世界中から観光客が集まります。ナポリの町自体も世界遺産に登録されています(写真は卵城「デッローヴォ城」。ノルマン時代の12世紀の建造です)。
ナポリと言えばピッツァ。マルゲリータです!
ピッツァ・マルゲリータの誕生は1889年。イタリアを統一したマルゲリータ王女がナポリを訪問した際に献上されたものが始まりだとされています。
ピッツァ・マルゲリータは生地の上にトマト、モッツァレラチーズ、オイル、バジリコの葉をのせて焼いただけのシンプルなピッツァ。
生地はふっくらもちもちとしており、日本のイタリアンレストランのピザのようにパリパリとはしていません。
生地には額縁が付いています。これも残さず平らげるのがマナーだそうです。
また、本場のピッツァの食べ方は、ひとり一枚食べきりで、小分けにすることはないそうです。
もちろん、私も食べました。
店は、有名な「IL PIZZAIOLO DEL PRESIDENTE」。クリントン元大統領がナポリサミットの時にお忍びで出かけたという曰く付きのお店です。もちろん美味しかったです(写真はナポリの海岸線です。ヴェスビオスが見えます)。
ナポリのユース、「オステロ・メルジェリーナ」です。
このユースは丘の上にあるのですが、 その坂道の途中、壁にこんなラクガキがでっかく書かれていたので、私はびっくりしてしまいました!
「このユースのじじいは最悪だ!」
日本語です!
ペンキで書かれたその文字はかなり目立っていました。
これを書いた日本人、ユースのおやじに相当むかついたのでしょうね~。
それで、わざわざペンキを買って、わざわざここまでやってきて、でかでかと殴り書いたのでしょう。
その様子を想像してちょっと笑えました。
ユースのじじいですが、別に特別いい人ではありませんでしたが、嫌な人でもなかったです。
なお、このユースの金額は当時のレートで25000イタリアンリラ。1800円くらい。2段ベッドの6人部屋で、シャワーがやけにぬるいのが特徴でした。
火山灰の下から現れたローマ時代そのままの町「ポンペイ」
紀元79年、ナポリ近郊にあったローマ帝国の町「ポンペイ」は一瞬のうちに消失しました。
ヴェスビオス火山の噴火による火砕流が町を覆い尽くし、町は火山灰によって埋められてしまったのです。
当時、町には1万人弱の人が居住していたといいますが、そのほとんどが火砕流に飲み込まれ、亡くなったと言われています(写真の奥に見えるのがヴェスビオス火山)。
灰に埋まった町はその後、長らく放置されていました。
発掘が始まったのは、それからおよそ1650年後の1748年。
火山灰を取り除くと、そこにはローマ時代そのままのポンペイの町が姿を現しました。
ポンペイは当時のローマでも活気のあった町で、ワインの醸造や物流の拠点として大いに繁栄していたそうです。
町にはパン屋やクリーニング屋などの商店や市場、レストラン、浴場、劇場や闘技場などがあり、ローマ人の別荘や娼館まであったことが発掘によりわかっています。
遺跡には素晴らしいモザイク画の壁画や、市民の書いた落書きなども残っています。
写真の道路もきちんと歩道と車道が分かれています(上の写真)。
劇場です。
ローマ時代の暮らしは、現代の暮らしぶりとそれほど変わりはなかったようです。
このポンペイ遺跡の発掘により、そんなローマ時代の暮らしぶりが明らかにされました。
人々は食と娯楽にいそしみ、性についてもかなりおおらかだったことがわかっています。
闘技場です。
当時、ポンペイには市民だけでなく大勢の奴隷が暮らしていました(戦争で負けた国の人が奴隷にされた)。
奴隷と言っても近代の奴隷のようにひどい扱いをされていたわけではなく、家の使用人とかメイドとかそういうイメージであるようです。
彼らもその家の主と共に火山灰に飲み込まれました。
闘技場では奴隷が戦士となって、人々を楽しませていました。
彼らは現代に於けるスポーツ選手のような存在で、人々のヒーローでした。
彼らも見物する観客とともに火山灰に飲み込まれました。
発掘の際、火山灰の下に空洞がいくつも見つかりました。
これは、埋まった人の体が長い時間をかけて腐り、その場所が空洞になったものです。
発掘者たちはここに石膏を流し込み、人型を再現しました。
すると、火山灰で亡くなる直前の人々の様子が驚くべきリアルさで甦ったのです。
抱き合って亡くなった男女、子供を守るようにして亡くなった母親など・・・。
ポンペイは、ローマ時代そのままの生活を後世に伝えると共に、悲劇に遭遇した人々のドラマをも 垣間見ることができる、非常に貴重な遺跡です。
もちろん世界遺産に指定されています。
イタリアンブーツの踵からフェリーでギリシャへ
ナポリとポンペイを観光した後、列車に乗り、イタリアンブーツの踵にある「ブリンディシ」へと向かいました。
ブリンディシからはフェリーに乗ってギリシャへと渡ります。
フェリーは夕方出発し、翌朝ギリシャのパトラに到着する予定。
船の甲板で寝袋にくるまりながら、夜のアドリア海を揺られて行きました。
写真はギリシャ行きのフェリーの甲板から見たアドリア海の夕景です。
旅行時期:1996年6月・7月
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