プラハ。
ヴルタヴァ川(ドイツ語名モルダウ)を中心に広がる東欧有数の都会。
120万の人口を誇るチェコの首都です。
14世紀、プラハは神聖ローマ皇帝カレル4世のもと、「黄金のプラハ」と呼ばれるほどの繁栄を謳歌しました。
街並みにはその当時の面影が今も色濃く残されています。
お伽話に出てきそうな美しい街の景観、中世から近世、現代まで連なる様々な様式の建築物、クラシック音楽のメッカとして、様々な映画や文学作品の舞台として。
プラハには世界中から観光客が訪れます。
もちろん、世界遺産に登録されています。
プラハには人々の心の中に生き続ける「歌」があります。
しかし、プラハは歴史的に見て、華やかな繁栄を謳歌するだけの街ではありませんでした。
プラハは、世界史でも稀に見る幾多の困難を経験してきた街なのです。
チェコ語の使用を禁止された「暗黒時代」と呼ばれるハプスブルク家の支配。第一次大戦後のナチス・ドイツへの編入、そして、冷戦下のソ連の実質的支配と、それを象徴する「プラハの春」を崩壊させた1968年のワルシャワ条約機構軍の侵攻・・・。
この美しい街並みの摩耗した石畳には、そして、教会の側廊の壁面には、プラハという街の幾多の苦難が刻み込まれているのです。
ビートルズの代表曲のひとつに、「ヘイ・ジュード」という曲があります。
1968年、「プラハの春」とそれに伴うワルシャワ条約機構軍の軍事介入(チェコ事件)の直後、あるチェコ人女性シンガーがこの曲をカヴァーし、発表しました。
彼女の名は、マルタ・クビショヴァー。
マルタは、当時のチェコのトップシンガーのひとり。
ソロデビュー曲の「マルタの祈り」(Modlitba pro Martu)という曲が大ヒットし、国民的な歌手としてチェコのみならず、他のヨーロッパの国々まで名を知られている存在でした。
この、マルタの「ヘイ・ジュード」は、その後、チェコの人々にとって、そして、チェコの歴史にとって大きな意味を持つこととなります。
マルタの「ヘイ・ジュード」は、プロテスト・ソングでした。
多くの知識人や有名人がソ連や共産主義政権に従属してしまう中、マルタは歌で戦うことを選んだのです。
言論弾圧が行われる中、ラジオから流れてきた「ヘイ・ジュード」
Hey jude
1968年、チェコスロヴァキア共産党第一書記にアレクサンデル・ドゥプチェク氏が就任します。ドゥプチェクは当時の改革派の筆頭格。
彼は、閉塞状況にあった共産主義体制を改革させるため、同年の春に「新しい社会主義モデル」として、「党への権限の一元的集中の是正」「粛清犠牲者の名誉回復」「企業責任の拡大や市場機能の導入などの経済改革」「言論や芸術活動の自由化」「外交政策でもソ連との同盟関係を強調しつつも、科学技術の導入を通した西側との経済関係の強化」といった、革新的な政策を発表しました。
この改革は徐々にチェコスロバキア社会に浸透していき、市民の間にも自由の気運が高まっていきました。
アーティストたちも自由に表現できるようになり、様々な若い才能が開花していきました(その中のひとりがマルタです)。
このドゥプチェクの改革運動が一般に「プラハの春」と言われるものです。
しかし、この「プラハの春」は、たった4ヶ月程度で終焉を迎えることとなります。
東側の盟主としてのソ連は、チェコスロバキアの自由化の流れを黙って見ているわけにはいかなかったのです。
Marta Kubišová – HEY JUDE (DLOUHY PUST M.K.)
1968年8月20日、ソ連率いる60万のワルシャワ条約機構軍が国境を突破し侵攻。
たった1日でプラハの街を制圧、チェコスロヴァキア全土を占領下に置きます。
ドゥプチェクは解任され、「プラハの春」は終わりを告げ、再びチェコは言論弾圧や検閲の厳しい、改革前の状態に逆戻りしてしまいました。
そして、多くの知識人たちも、共産党を支持するか国を捨て国外へと去るかのどちらかを迫られたといいます。
そんな中、マルタは秘かに当局と戦う決意をします。
当時、放送局は既に当局に占拠され、自由や批判を表現することはできません。
そこで、市民は工場の地下に秘密のラジオ局を設けて放送を流しました。
放送から流れてきたのは、マルタの「ヘイ・ジュード」
歌詞を変え、暗に政府・ソ連批判や、自由への希望をチェコ語で訴える「ヘイ・ジュード」でした。
1969年にシングルカットされた同曲は、チェコ史上空前の60万枚という大ヒットを記録したといいます。
しかしながら、すぐに彼女のアルバムは発禁処分を受け、マルタも当局に尋問を受けることとなります。
そして、1970年、マルタは音楽界から永久追放されることとなりました。
歌うことを禁じられていたマルタが、20年ぶりに人々の前で歌った
永久追放後、マルタは歌うことを禁じられ、仕事を奪われ、やっと手にした内職の仕事も奪われるなど、苦しい日々を過ごしたといいます。
しかし、彼女の歌はチェコの人々の心に残り、秘かに歌い続けられていたのです。
それから約20年後の1989年。
東欧は大きな変革を迎えます。
ソ連のゴルバチョフのペレストロイカに触発され、東欧の国々は民主化の動きを強め、1989年、ついにその運動が結実したのです。
1989年12月10日、プラハのヴァーツラフ広場。
チェコの民主革命「ビロード革命」の達成を祝う30万の群衆の前にマルタは姿を現します。
そして、人々に促され、代表曲である「マルタの祈り」(Modlitba pro Martu)を歌いました。
歌うことを禁じられていたマルタが、20年ぶりに人々の前で歌った。
彼女の長い間訴え続けた自由がついに達成されたのです。
それも、民衆の力によって無血で。
広場は熱狂に包まれ、この歌は革命の象徴的な歌として、その後もチェコで広く歌われるようになったといいます。
マルタは、革命後、現在に至るまで音楽活動を続けており、アルバムを発表し、コンサートを行っているようです。
歌手が歌うことを禁じられる。
アーティストとしてこれ以上の苦痛はないはずです。
だけど、その苦痛を引き受けてでも、自分の信念に忠実であろうとしたマルタ。
これほどの歌手が今いるのでしょうか。
本当に讃えられるべき人だと思います。
そんな物語が、このプラハにはあります。
旅行時期:2003年5月
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