ルーマニアの首都ブカレスト。
中世から続く長い歴史を持つこの町には歴史的な建造物がほとんどありません。
共産党政権時代の都市計画により、ほとんどの建物が破壊されてしまったためです。
民主化革命の成し遂げられた町「ブカレスト」
1989年12月に起こったルーマニア革命は、東欧の民主化運動におけるハイライトのひとつでした。
処刑されたチャウシェスク大統領の映像がテレビに映され、全世界に衝撃を与えていたことを覚えています。
共産政権によって情報統制の敷かれていた当時のルーマニア。
東欧の民主化のうねりの中、革命はこの国で唐突に始まり、畳み掛けるように一気に成し遂げられました。
ブカレストの街並み
革命は12月15日、ハンガリー系住民の多い西部の都市「ティミショアラ」で始まりました。
その日、市民は街の広場に集まっていました。
政府の出したハンガリー人牧師退去命令に抗議するためです。
ところが、その市民に対し治安部隊は発砲してしまいます。
広場は血の海に濡れ、数百人の犠牲者を出す惨事となってしまったのです。
報道は規制されていたため、この事実が発表されることはありませんでした。
けれども、政府のこの蛮行は瞬く間に国民に知れ渡ることになります。
この事件を契機に人々の政府への不信は全国へと波及し、チャウシェスク政権への抗議運動へと発展していきました。
そして、そのうねりは首都ブカレストにおいてクライマックスを迎えることとなるのです。
ブカレストの風景
2003年の春、私はこの町を訪れました。
列車が「ブカレスト・ノルド駅」に到着すると、すぐに宿探しを始めます。
「ブカレスト・ノルド駅」一帯は市場や食堂などが並ぶ雑然としたエリア。
安ホテルもこの界隈にいくつかあって、私はそのうちの1つ「Marna Hotel」に宿泊しました。
1つ星で、トイレシャワー共同のシングル(425,000Lei:1,568円)。
荷物を置くと、街の中心へ向けて歩き始めました。
宿のある界隈から東に1キロほど進むと、繁華街である「ヴィクトリア通り」にぶつかります。
そして、「ヴィクトリア通り」のブティックやギャラリーなどを眺めながら歩いていくと、ふいに目の前がひらけ、石畳の広大な広場が現れました。
「革命広場」です!
さめざめとした広場の周りには巨大な建造物が建ち並んでいます。
「共和国宮殿」「アテネ音楽堂」「アテネパレスヒルトンホテル」があります。広場の南東には、革命の時に治安部隊が立てこもったという「大学図書館」があり、その隣には「旧共産党本部」があります。
ブカレストのトラム
ブカレストの凱旋門
1989年12月22日、ルーマニア革命
12月21日、チャウシェスクは「旧共産党本部」のテラスから広場を埋め尽くす大群衆を前に演説を行ったそうです。
けれども、ティミショアラの事件に怒りを感じていた群集は、彼を敵意の視線で迎えました。
演説は大ブーイングによって遮られたのです!
彼に国民を押さえつける力は既にありませんでした。
国民はわかっていたのです。もう彼を倒す以外にないと。
革命の機運は熟していました。
集まった群集はそのままデモを行い、「革命広場」の南東にある大学広場を占拠。
そして、軍や秘密警察と対峙することになります。
深夜、当局により実力行使が発令されました。
戦車が投入されたその戦闘では、数十人にも及ぶ犠牲者が出たそうです。
アーケードのあるブカレストの通り
12月22日朝。共産党本部は数十万の市民により包囲されました。
この頃にはもはや大勢は決していました。
軍は当局の発砲指令を拒否し、デモ隊の側に付くこととなります。
正午、デモ隊は「共産党本部」に突入を開始しました。
危険を感じたチャウシェスクは屋上からヘリコプターで脱出しますが、彼はその日のうちに逮捕されてしまいます。
そして、3日後の12月25日、彼は簡単な裁判により死刑を宣告され、婦人エレナとともに即日処刑されたのです。
統一大通り(ブカレスト)
大学広場の辺りはブカレストで最も繁華な界隈です。
レストランや百貨店、学生向けの古本屋の屋台などが軒を連ね、人々が引っ切り無しに行き交っています。
そこから通りをしばらく南下していくと「統一広場」があります。
広場の角にある「ウニリャ百貨店」の一階には、マクドナルドのロゴが見えました。
私はそこで一休みすることにしました。
店内を見回すと、ブカレストのおしゃれな若者たちが至るところで駄弁っています。
日本や西欧と変わらない、なじみのある光景です。
あの革命から15年。資本主義の象徴とも言えるマクドナルドは、今や国中の至る所にあります。
マクドナルドはブカレスト人にとってすっかり日常のものとなっているようでした。
旅行時期:2003年5月
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