※前回の記事→「ヴォロネツ修道院」の壁一面に描かれた群青色のフレスコ画を見る【ルーマニア】
ルーマニア北東部、ブコヴィナ地方の中心都市「スチャヴァ」(Suceava)。
14〜16世紀には、モルダヴィア公国の首都だった町で、人口は約10万人。
世界遺産にも登録されている「5つの修道院」観光の拠点ともなる町で、それなりの都会です。
あまり特徴のない「スチャヴァ」の街を歩く
「スチャヴァ」は、マラムレシュ地方の中心都市「バイア・マーレ」と似て、無機的な建物が並ぶ旧共産圏っぽい雰囲気の町。
「スチャヴァ城」や「聖ゲオルゲ教会」といったモルダヴィア公国時代の建物がいくつか残っていますが、街そのものはそれほど特徴のない感じです。
それと、マクドナルドがありました。
ルーマニアの大きな町にはたいていマクドナルドがあって、地元の人々で賑わっていました。
メニューは、日本とそれほど変わらない感じ。
ホテルは、中心部の「12月22日広場」に面した2つ星のホテル「ホテル・スチャヴァ」(トイレ、シャワー付きシングル 565,000Lei:2,084円)に宿泊しました。
中央公園の横にあった教会
街の中心にある中央公園、その横には立派な教会があります。
夕方、私は、ここで日曜のミサが行われているのに出くわしました。
薄暗い堂内に神父の厳かな祈りの声が響き渡っていて、入り口からは、次々と人々がやってきて、順番に十字を切り、神の前で跪いていきました。
老人や老婆だけでなく、若い女性や子供たちも真剣に祈りを捧げていたのが印象的でした。
荘厳な鐘の音、人々の歌う宗教歌・・・。
ここには信仰が生きていました。
「12月22日広場」の様子
夕食は「12月22日広場」に面した食堂でとりました。
ルーマニアの食事はなかなか美味しいです。
私はまず赤ワインを注文しました。甘く飲みやすい、安物ルーマニアワインです🍷
そして、それを飲みながら、「チョルバ」というルーマニア風スープをすすり、ひき肉の炭火焼料理、「ミティティ」をいただきます。
この「ミティティ」、中東からインドにかけて食べられている「ケバブ」によく似ています。
たぶん、トルコの影響なのでしょう。
ルーマニアは、16世紀から18世紀にかけて、オスマントルコの支配下に入っていたのです。
ヨーロッパを脅かしたオスマントルコ
ローマを破り、コンスタンティノープル(イスタンブール)を征服したオスマントルコ。
その後の勢いは凄まじいものでした。
彼らは、西アジアから地中海にかけて、数多くの土地を征服していきます。
まず、黒海の北、クリミア半島の「クリム・ハン国」を服属させ、バルカンのセルビア、ボスニア、ヘルツェゴビナを領有。
イランの「サファヴィー朝」を破り、エジプトへと進出。エジプトの「マムルーク朝」を滅ぼして聖地メッカとメディナの領有権を得ます。
そして、最盛期の「スレイマン1世」の治世において、ついにオスマントルコは中央ヨーロッパへと侵攻を開始します。
その後、帝国は1529年の「ウィーン包囲」や、スペイン・ヴェネツィアの連合艦隊を破った1538年の「プレヴェザの海戦」などにより、ヨーロッパキリスト教世界にそこはかとない恐怖を与え続けることとなるのです。
スチャヴァの公園
ヨーロッパに脅威を与え続けたオスマントルコ。
けれども、この帝国は宗教に対してはかなり寛容だったそうです。
それは、オスマン帝国中枢の官僚たちの中にキリスト教徒が多く含まれていたことでもわかります。
オスマントルコは、支配地にイスラムへの改宗を強要しませんでした。
西アジアから中欧、北アフリカまでの広大な世界を支配するためには、ある程度の寛容が必要であったに違いありません。
民族、宗教、異なる文化的背景を持つ様々な人々が暮らす大帝国「オスマントルコ」は、ヨーロッパ世界にはとっても恐れられていましたが、実は、あらゆる民族や宗教が共存するコスモポリタンな帝国だったのです。
その一方、16世紀当時のヨーロッパには宗教戦争の嵐が吹き荒れていました。
カトリックとプロテスタントは、自分たちの教義の正しさを主張し、多くの血が流されたそうです。
当時のヨーロッパ人は、オスマントルコを悪魔のように見ていましたが、オスマントルコ側からすると、ヨーロッパの方が悪魔のように見えていたのかもしれません。
イスタンブールの風景
「スチャヴァ」には、2泊しか滞在しませんでした。
「5つの修道院」のひとつ、「ヴォロネツ修道院」に日帰り観光した後、夜行列車でブカレストへと向かいます。
そして、ブカレストに数日滞在した後、オスマントルコの首都であった「イスタンブール」を目指します。
旅行時期:2003年5月