サマルカンド(Samarkand・سمرقند・Samarqand・Самарқанд)の北東、アフラシャブの丘の南麓にある墓地、それが「シャーヒズィンダ廟群」です。
一直線に続く通りの両側に並ぶ20以上の霊廟。これらは、11世紀から19世紀までの9世紀の間に作られたもの。
ティムールゆかりの人々の霊廟が並ぶこの通りは、現在でも巡礼に訪れる人々が絶えない、聖地のひとつです。
”死者の通り”シャーヒズィンダ廟群は、夕暮れが似合う
「シャーヒズィンダ」とは、”生ける王”という意味。
7世紀のアラブの侵攻の際、布教のためにサマルカンドにやってきた預言者ムハンマドの従兄クサム・イブン・アッバースは、この場所で礼拝をしている時に襲われ、首をはねられてしまいました。
しかし、アッバースは動じることなく礼拝を終え、自分の首を拾うと、深い井戸へと入って行きました。井戸の底は楽園の庭。彼はそこで永遠の命を得て、イスラムが危機に陥ったときに救いに現れると信じられているそうです。
多くの巡礼者が訪れる霊廟。ここでは、外国人ツーリストよりも地元ウズベキスタンの参拝者の姿が目立ちました。
霊廟の入り口にはウルグベクが建てた門が建っています。その門の所にチケット売り場があり、門をくぐるといきなり階段が現れます。
この階段、登りながら数を数え、帰りに降りながら数え、そして、数えた階段の段数が登り降りで一致していたら、天国にいけるという伝説があるのだそうです。
ウズベキスタンの主要宗教はイスラム教。
全人口の96%がムスリムです。
Wikipediaの説明によると、
国内のイスラム教信者の割合は高いものの、イスラム教の実践は一枚岩からは程遠い。信仰については、20世紀を通して改革や世俗化、イスラム教の伝統との衝突を通して中央アジアで様々な方法が実践されているが、このような混乱した状況が世界へと発信され、定着することとなった。ソビエト連邦の崩壊により多くの人が予想したようなイスラム原理主義の台頭を招くことはなく、衣食に関する戒律は緩やかであり、基本的に女性は頭髪や足首を隠さない。 しかし、ブハラなどイスラム色の強い都市では女性がパンツ(ズボン)を履くことに対して良く思わない傾向があり、多くの女性はスカートを履いている。
信教の自由の権利を保証しているものの、ウズベキスタンは国によって認可されないあらゆる宗教活動を禁じている。
とあります。
確かに、旅行をしていて感じるのはイスラム色の薄さ。
女性は髪の毛を露わにしている人が多いですし、イスラムの国でお馴染みの礼拝時の「アザーン」の呼び声もほとんど聞こえてきません。
その装飾の多様さと美しさで中央アジア屈指と言われるシャーヒズィンダ廟群。
上は、ティムールの妹の廟とされる「シリンベク・アカ廟」(1385年)。
ふたつのドームを冠した廟は、ウルグベクの天文学の教師カズィ・ザデ・ルミの廟「コシュ・グンバズ廟」(15世紀)。
入り口の門をくぐってすぐの所にある階段、これは「天国への階段」と呼ばれています。
みなさん、ウズベキスタンの方々から参拝に訪れている様子でした。
ここは、ウズベクの方々にとって、伊勢神宮とか出雲大社のような存在なのかもしれません。
シャーヒズィンダ廟群の横には、一般の方々の墓地がありました。
イスラム教ではキリスト教同様、最後の審判の教義により、生前の肉体が失われることになる火葬は禁忌なので土葬が行われています。
広大な墓地には、無数のお墓がありました。
墓碑には故人それぞれの遺影が飾られています。
夕暮れの墓地、歩いている人はほとんどおらず、ちょっぴり恐ろしげな感じ。
日が地平線の向こうに徐々に沈み始め、廟群が次第に闇に包まれていきます。
廟群に灯りが灯り始めます。
参拝客はすっかりと姿を消し、歩いているのは我々を含めた少数の外国人ツーリストのみとなりました。
こちらは、「クサム・イブン・アッバース廟」(11世紀)。
モンゴル来襲の際、この廟だけは破壊されずに残されました。そのため、この廟はサマルカンドで最も古い建造物となっています。
この廟に3回詣でると、メッカに詣でたのと同じことになると信じられていたそうです。
夜の闇に包まれた霊廟群。
ちょっと薄ら寂しい雰囲気を感じるけど、”死者の通り”シャーヒズィンダ廟群は、やっぱり夕闇の風景が似合います。
旅行時期:2012年4月〜5月
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