「シルクロード」
なんてロマン溢れる響きなのでしょう!
歴史を知る者にとって、シルクロードは憧れの場所。
かつて、まだ世界が広かった頃、東方の唐やインドと西方のペルシャやローマ帝国は、シルクロードの交易を通じて繋がっていました。
シルクロードを通じて中国の陶器がヨーロッパへと伝わり、ペルシャのガラスが中国や日本へと伝わり、製紙法や羅針盤が中国からアラビア、ヨーロッパへともたらされ、葡萄や胡瓜、胡麻、胡桃などが西方から中国に持ち込まれ、インドから仏教が、ヨーロッパからキリスト教が、ペルシャやアラビアからはゾロアスター教やイスラム教が中国に伝わりました。
そんな東西の交易路の中心に位置していたのが、今回ご紹介する「サマルカンド」(Samarkand・سمرقند・Samarqand・Самарқанд)という町です!
サマルカンドの中心、スケールのでかすぎる「レギスタン広場」
見てください!この壮麗な空間を!
サマルカンドのシンボルとも呼べる場所「レギスタン広場」です。
正面に見えるのが「ティラカリ・メドレセ」(1660年創建)、左手にあるのが「ウルグベク・メドレセ」(1420年創建)、右手にあるのが「シェルドル・メドレセ」(1636年創建)です。
3つのメドレセが形作る空間の調和が素晴らしく、ウズベキスタンという国やサマルカンドの町の紹介では、たいていこの場所の写真や映像が使われます。
「レギスタン」とは、”砂地”を意味する言葉。
かつて存在した河川によって砂が堆積した場所が広場となっていったと考えられ、各都市の広場は「レギスタン」と呼ばれるそうです。
レギスタン広場は、公共の広場として、王の布告の場、罪人の公開処刑の場、祝祭の場、そして、バザールとして使用されてきました。
サマルカンドのレギスタン広場は、ティムールの時代に拡張され、大きな屋根のついたバザールが建てられたそうです。
その後、孫のウルグ・ベクによって左手のメドレセが建てられ、後のシャイバーニー朝(1428〜1599)の時代に正面と右手のメドレセが建てられ、現在の構成となりました。
サマルカンドの歴史とティムール帝国
サマルカンドは、紀元前10世紀頃からイラン系ソグド人によるオアシス都市として発展していました。当時の町の名前は「マラカンダ」
紀元前4世紀には、マケドニアのアレクサンドロス大王もここを攻略するために訪れ、町の美しさに感嘆したとかしないとか。
その後も、サマルカンドはソグド人によって中央アジア交易の中心地であり続けましたが、8世紀前半にウマイヤ朝のアラブ連合軍に征服され、イスラム化が始まります。
751年には、中国の唐とイスラムのアッバース朝による「タラス河畔の戦い」が起こり、この戦いによって唐で発明された製紙法が初めて西方に伝播しました。サマルカンドには、イスラム世界初の製紙工場が作られたそうです。
1220年、サマルカンドにチンギス・ハーン率いるモンゴル軍が襲来します。街はモンゴル軍によって徹底的に破壊されてしまいました。
ちなみに、モンゴル軍によって破壊された以前のサマルカンドは丘の上にあり、再興した町の中心、現在の「レギスタン広場」は丘の麓にあります。
14世紀に台頭したのが「ティムール」(1336〜1405)です。ティムールは中央アジアから西アジアまで、かつてのモンゴル帝国の半分に匹敵する地域を征服した軍事的天才です。
ティムール帝国(1370〜1507)の最大版図です。
その版図は、北東は東トルキスタン、南東はインダス川、北西はヴォルガ川、南西はシリア・アナトリア方面にまで。
かつての「モンゴル帝国」の西南部地域をまるまる制覇しました。この最大版図は、王朝の始祖ティムール一代によって実現されたものです。
ティムールは、征服した都市で破壊と殺戮を繰り返す一方、このサマルカンドを始めとした都市の建設にも熱心だったことで知られています。
「チンギス・ハーンは破壊し、ティムールは建設した」と言われます。
現在のサマルカンドは、ティムールによって生まれた町なのです。
ティムールの死後は、帝国はその息子たちによって分割され急速に縮小していきます。
15世紀後半にはサマルカンドとヘラートの2政権だけが残り、この2政権も16世紀初頭にウズベクの「シャイバーニー朝」によって滅ぼされてしまいます。
なお、サマルカンド政権最後の君主バーブルは、アフガニスタンのカーブルを経てインドに入り、19世紀まで続く「ムガル帝国」を打ち立てています。
最初に建てられたメドレセ「ウルグベク・メドレセ」
1420年に建てられた「ウルグベク・メドレセ」です。
ティムール朝(1370〜1507)第四代君主であるウルグ・ベクは、自身も優れた天文学者・数学者・文人であり、文人・学者の保護者としての事績が高く評価されています。
彼の治世には、サマルカンドに多くの学者が集まり、天文学・暦学・数学などの分野で多くの成果が挙げられました。
ウルグ・ベクの治世は、トルキスタン文化の黄金期と呼ばれています。
ウルグベク・メドレセの特徴は、入口アーチに描かれた青い星をモチーフにしたタイル模様です。
天文学者のウルグ・ベクらしいデザインです。
当時、この「ウルグベク・メドレセ」には、100名以上の学生が寄宿し、イスラーム神学や数学、哲学などを学んでいたそうです。
教師の給料や学生たちの奨学金は、ウルグ・ベクが建てたキャラバンサライからの収益によって賄われていたそうです。
ちなみに、ウルグ・ベク自身も教師として教壇に立っていたようです。
君主が教壇に立つって、すごいですね!
「ウルグベク・メドレセ」のミナレットの上からの眺めです。
ガイドブックに載っていない秘密の入り口を係員の人が教えてくれ、登らせてもらいました。
人や動物の姿が描かれている「シェルドル・メドレセ」
1636年に建てられた「シェルドル・メドレセ」です。
「シェルドル」とは、”ライオンが描かれた”という意味。
入り口アーチのところに、小鹿を追うライオンと人の顔をした日輪が描かれています。
イスラム教は、教義として偶像の崇拝を否定しており、人や動物の姿を描くことはタブーとされています。
本当は描いてはいけないライオンや人の顔が描かれた理由。それは、支配者が自分の権力を誇示しようとしたため。
しかしながら、その代償として建築家が責任をとって自殺したのだそうです。
「シェルドル・メドレセ」の外壁。
見事な幾何学文様です!
金箔に彩られた内装の「ティラカリ・メドレセ」
1660年に建てられた「ティラカリ・メドレセ」です。
レギスタン広場の正面に位置しており、建立以後、サマルカンドの主要礼拝所として使われました。
「ティラカリ」とは、”金箔された”という意味です。
「ティラカリ・メドレセ」の入り口アーチです。
青い幾何学文様をベースに、薄緑色の太陽(花?)のデザインがいいですね。
この3つのメドレセ、入り口アーチのデザインにそれぞれ特徴があって良いです。
「ティラカリ・メドレセ」内部のミフラーブ(メッカの方向の窪み)です。
その名の通り、内装は金箔で埋め尽くされています。
何でも、この金箔、建立時には5Kg、修復時には3Kgも使用されたのだとのこと。
金箔を使って描かれた星や植物、アラビア文字などをモチーフとした文様も見事。
壁面も天井も金箔で埋め尽くされているので、豪華感がすごいです。
まばゆいばかり! お金かかってます「ティラカリ・メドレセ」
ティムールが建てた中央アジア最大のモスク(の廃墟)「ビビハニム・モスク」
インド遠征後の1399年、ティムールは新たに首都として定めたサマルカンドに世界に並ぶものがないような壮大なモスクを造ろうと決意し、その造成をはじめました。
造成にはインドから持ち帰った貴石が使用され、その運搬のために90頭もの象が使用されたそうです。
国中から職人や技術者を集め、作業は急ピッチで行われ、1405年、モスクは当時としては異例のスピードで完成しました。これが「ビビハニム・モスク」です。
建物は、高さ167m、幅109m、モスクのドームの高さは40m、入口アーチ部分の高さは35mもあるという大規模なものとなりました。
ちなみに、「ビビハニム」とは、ティムールの第一夫人の名前だそうです。
しかし、この「ビビハニム・モスク」、あまりに急ピッチで建設されたため、そして、あまりに巨大であるため、不具合がいろいろあったようです。
話によると、完成後、信者が礼拝していると頭の上にレンガが落ちてきたのだとか。その後もレンガの落下は続き、落下を恐れて礼拝する信者もいなくなり、モスクは次第に使われなくなって、数世紀後には廃墟と化してしまったそうです。
急速に拡大し、百数十年という短期間で崩壊したティムール帝国の運命を表しているかのようなモスクです。
1974年、当時のウズベク・ソビエト社会主義共和国政府は、この「ビビハニム・モスク」の再建築を始めました。
現在見ることのできるのは、その再建築されたモスクの姿で、建立時のものは残っていないそうです。
訪問時、サッカー場の広さほどもある広い敷地内には、ほとんど人がおらず、まさに「廃墟」と呼ぶにふさわしい場所となっていました。
帝国の支配者ティムールが眠る「アミール・ティムール(グリ・アミール)廟」
1404年に建てられた「アミール・ティムール(グリ・アミール)廟」です。
「グリ・アミール」とは、タジク語で”支配者の墓”という意味。
ここには、ティムールだけでなく、息子のシャー・ルフ、ミーラーン・シャー、孫のウルグ・ベク、ムハンマド・スルタン、ティムールの師であったミルサイード・ベリケが葬られています。
もともとは、1403年にティムールの最愛の孫であるムハンマド・スルタンが急死したことがきっかけで造られたこの廟。
ところが、ティムール自身も1405年に中国への遠征途上で亡くなったため、ここに埋葬されることとなりました。
廟の内部です。
廟内は「ティラカリ・メドレセ」と同様、金箔で埋め尽くされています。
使用された金箔は約3Kg。
廟内部は、1996年に修復が完了し。建設当時の美しさを取り戻しています。
金箔で飾られたアラビア文字の装飾。
壁や天井は、このような文字や草木の文様などの装飾によって一面に覆われています。
エジプトのカルトゥーシュのような印象です。
墓石です。
奥にある黒い墓石がティムールのもの。ただし、ここにある墓石は、地下室にある墓の位置を示しているだけで実際の墓ではありません。
1941年、当時のソ連の学術組織によってティムールらの墓の調査が行われました。
そこで判明したのは、ティムールは172㎝という当時としてはかなりの長身であったこと、足が不自由であったこと。ウルグ・ベクが断首されて死んだことなどです。
この時、ティムールの棺には、「私が死の眠りから起きた時、世界は恐怖に見舞われるだろう」という言葉が刻まれていたそうですが、調査団は棺を開けて調査。
すると、棺の内側には文章があり、それを解読した結果「墓を暴いた者は、私よりも恐ろしい侵略者を解き放つ」という言葉が現れたそうです。
調査から2日後、ナチス・ドイツがバルバロッサ作戦を開始し、ソ連に侵入!
調査団は、1942年11月のスターリングラード攻防戦でのソ連軍の反撃の直前に、ティムールの遺体をイスラム教式の丁重な葬礼で再埋葬したのだとのこと。
中央アジア史上最大の人物、ティムールの人物像
ティムールは、中央アジアの歴史上、最大の人物と言っていいでしょう。
さて、ティムールってどんな人物だったんでしょうか?
Wikipediaのティムールの記述には、このようなことが書かれています。
【教養】
ティムールは読み書きこそできなかったが、彼と対面した人間は概して教養人という印象を抱いた。遠征の途中などで時間が空いたときには従者に書物を読み上げさせ、特に歴史書を好んだという。歴史以外にも医学、天文学、数学の価値を評価し、建築に関心を抱いた。ティムールは学者のほかに、芸術家や職人に対しても尊敬の念を抱いていた。【趣味】
ティムールの趣味の一つにチェスがあり、暇を見てはチェスを楽しんでいた。その腕前は相当なものであり、名人とも対局した。夜中に一人で巨大なチェス盤に向き合って物思いに耽り、複雑な戦略を巡らせながら駒を動かしていたエピソードが知られている。このため、ティムールはチェスから戦術の着想を得たという見方も存在する。【信仰】
イスラム教を信仰するとともにモンゴルの伝統にも従ったティムールは、酒をこよなく愛し、伝統的なモンゴルのシャーマニズムを信仰する人間に改宗を強制しなかった。【残虐性】
征服地から得られる利益を確保するため、原則的にティムール軍は兵士に征服地での略奪、強姦を禁じていた。しかし、征服地で反抗の兆候が見られると、ティムールは恐怖を植え付けるために大量虐殺を行い、住民を服従させた。ヘラート、イスファハーンで行われた「見せしめ」のための虐殺、デリーでは自軍の安全を保障するための虐殺が行われた。非イスラム教徒に対しては虐殺そのものを楽しんでいた傾向もあった。【サマルカンドへの愛着】
ティムールは都に定めたサマルカンドに強い愛着を抱いており、多くの施設を建設した。モスク、マドラサ、武器工房が建設され、灌漑水路も整備された。大規模な工事現場にはティムール自身も視察に現れ、建築家や商人を叱咤激励した。
また、当時のヨーロッパ人からの視点では、15世紀当時ヨーロッパを恐怖のどん底に陥れていたオスマン・トルコを破った者として、ティムールを英雄的に扱う向きがあったようです。
フランス王シャルル6世やイングランド王ヘンリー4世は彼を同盟者と見なしていたといいます。
ウズベク国内では、ソ連時代はティムールは「抑圧者」「破壊者」として否定的に評価されていましたが、ウズベキスタン共和国独立以降は、英雄として復権を果たしています。
旅行時期:2012年4月〜5月
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