黒人奴隷の積み出し港だった島「ゴレ島」(アフリカ黒人の悲劇の歴史)【セネガル】

黒人奴隷の積み出し港だった島「ゴレ島」(アフリカ黒人の悲劇の歴史)【セネガル】

ゴレ島 セネガル・マリの旅
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セネガルの首都ダカール

16世紀から19世紀にかけて、ダカールは大西洋を横断する奴隷貿易の中心地でした。

奴隷たちは、ダカールの沖合に浮かぶ島ゴレ島のエストレー要塞に集められ、船に載せられました。

今回は、「ゴレ島の歴史」を紹介します。

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大西洋の沖合いにある島「ゴレ島」

ゴレ島

ゴレ島フェリーから見た「ゴレ島」の遠景

 

ダカールの港から船で20分、大西洋の沖合いに「ゴレ島」はあります。

「ゴレ島」は、東西300m、南北900mの小さな島。この島は、かつて奴隷貿易の拠点であったという歴史があり、その理由から世界遺産にも登録されています。

ゴレ島「ゴレ島」の船着場

ゴレ島パステルカラーの家並みが見えます。

ゴレ島「ゴレ島」の白砂の海岸

 

「ゴレ島」の港は、ダカールからのフェリーと、釣り船しかいないような小さな港。

港の周囲にはパステルカラーの家並みが見えます。

この島は、15世紀にポルトガル人がヨーロッパ人としては最初に訪れ、17世紀にオランダに占拠され、その後、フランスによって19世紀まで植民地支配されました。

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美しい島「ゴレ島」の暗く悲しい歴史

ゴレ島フェリーから見た「ゴレ島」の要塞

 

ダカールの沖合いに浮かぶ島「ゴレ島」

この島には悲しい歴史があります。

16世紀、新大陸を征服したヨーロッパ人たちは、支配下に置いた南北アメリカやカリブ海地域において、ヨーロッパ市場向けの農作物を生産する大規模な農場経営に乗り出しました。

当初、農場での労働力として使っていたのは原住民であるインディオ。

けれども、インディオたちは、疫病に罹ったり、虐殺されたりしたことで、その数が激減。そこでヨーロッパ人たちは、インディオの代わりの労働力として、アフリカから黒人を連行することを考えたのです。

黒人たちは、ヨーロッパ人に捕らえられ、奴隷として売買されました。

ヨーロッパ人たちは、まず、ヨーロッパ産の綿布や酒、鉄砲などを、アフリカ西海岸へと運んで、そこで黒人奴隷と交換します。

次に、黒人奴隷をアメリカ大陸へと運び、今度は奴隷たちを砂糖や綿花、タバコといった現地で栽培された原材料と交換。

そして、最後に、原材料をヨーロッパへと運び、商品にして世界中に販売しました。

16世紀中頃から始まる「三角貿易」です。

この「三角貿易」によって、ヨーロッパ諸国は莫大な利益を得ました。

16世紀から19世紀にかけて行われた「奴隷貿易」で新大陸に連れて行かれた黒人奴隷の数は、1,200万~2,000万人であると言われています。

ゴレ島島の端っこにある要塞の跡

ゴレ島大西洋に向けた大砲の遺跡

ゴレ島大砲がたくさん転がっていました

ゴレ島丘の上に残された大砲

 

西アフリカ各地から連行された黒人たちは、この「ゴレ島」に集められました。

「ゴレ島」には、奴隷貿易で栄えた時代の遺構が数多く遺されています。

これらの遺構は、今では観光スポットになっています。

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黒人たちは「帰らずの扉」から船に乗せられ、アメリカ大陸へと送りだされました。

ゴレ島「ゴレ島」の建物の跡

 

黒人奴隷たちは、奴隷船に寿司詰めにされて積み込まれ、「ゴレ島」の港から大西洋を渡り、アメリカ大陸へと運ばれました。

奴隷船による航海は、凄惨極まるものだったそうです。参考資料から少し抜粋してご紹介します。

「西海岸の各地から新大陸までは、ほぼ四〇日から七〇日の航海だったが、悪天候が続けば一〇〇日を越えることもあった。これは「三角貿易」の第二辺をなしており、「中間航路」(Middle passage)と呼ばれた。「中間航路」こそは人類史上例を見ない、凄惨きわまる奴隷航海のことであった。時期によって相違はあったが、航海中の死亡率は八パーセントから二五パーセント、平均的には船上の捕虜六人のうち一人が死んだと言われる。奴隷船の大きさは一〇〇ないし二〇〇トンで、船に積み込まれる前には男女とも頭を剃られ、所有主か会社のブランドが身体に焼き付けられた。足首に鎖を付けられたほか、全裸で、船のトン当たり一~二名が船倉にぎっしりと詰め込まれた。食事は朝夕の二回、少量の水がときどき与えられたほか、一日に二回程度は甲板に出て外気を吸うことが許された。船内は不潔そのもので、汚物と臭気が充満し、マラリア、天然痘、赤痢などの病気が襲うこともよくあった。そんな場合、死者だけでなく、病気にかかった者までが生きたまま海に投げ捨てられたために、奴隷船の後をサメの大群が追いかけたという。航海中の損失を少なくするために、船荷には多額の保険がかけられた。」

新書アフリカ史 宮本正興+松田素二編 講談社現代新書

ゴレ島帰らずの扉

 

上の写真は、「帰らずの扉」

ここから、多くの奴隷がアメリカ大陸へと送りだされたのだそうです。

現在、アメリカにいる多くの黒人たちのルーツはここにあるのです。

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「ゴレ島」の街並みと風景

ゴレ島パステルカラーの「ゴレ島」の路地

ゴレ島「ゴレ島」の路地風景

ゴレ島青い大西洋を眺める

 

芸術家や作家などが多く住み、観光客が多く訪れる「ゴレ島」

現在の「ゴレ島」は、悲惨な歴史があったことなど全く感じさせない、のんびりとした島でした。

ゴレ島サッカーをする少年と赤いオート三輪

ゴレ島校庭でサッカーをする子供たち

ゴレ島洗濯物が干されてます

 

「ゴレ島」は、静かな島。

島の中心には、小学校があり、子供たちがサッカーをしていました。

ゴレ島立派なバオバブの木

 

島には立派なバオバブの木がいくつも生えていました。

日差しがとても強く、目が眩しい。

ゴレ島アフリカらしい、ビーズのアクセサリーを売るお店

ゴレ島路上にあった土産物屋

ゴレ島動物の木彫り屋

ゴレ島アフリカの太鼓、ジャンベを作る

ゴレ島「ゴレ島」の高台から海を望みます

 

「ゴレ島」は、小さいながら起伏のある島です。

島の高台にはフランス統治時代の要塞があり、そこからは、紺碧の大西洋と、遠くにダカールのビル群が見えます。

要塞は観光名所になっており、途中には、ビーズのアクセサリーを売る店や、アフリカの太鼓「ジャンベ」を売る店、木彫りの動物を売る店、アフリカの絵画を売る店などがありました。

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島を案内してくれた「マサール」氏

ゴレ島ド派手な格好をした「マサール」氏

ゴレ島ポーズをとるマサール氏

ゴレ島路地に佇むマサール氏

 

「ゴレ島」を案内してくれたのは、ド派手な格好をした「マサール」氏。

画家だそうです。島を歩いていると、声を掛けられました。

最初、ガイドなのかなと思ったのですが、最後に別れる時になっても、特にお金を請求してきたりはしませんでした。

マサール氏は、奴隷の積み出し港や、島を一望できる丘や、ランチをいただけるレストランなどを案内してくれました。

ゴレ島紺碧の大西洋に囲まれた「ゴレ島」

 

突き刺さるような日差しと、強い風。目の覚めるような紺碧の海。

ダカールの沖合に浮かぶ島「ゴレ島」

16世紀から19世紀にかけて、今からたった百数十年前まで、この島では、黒人を捕え、奴隷として売買する「奴隷貿易」が行われていました。

黒人たちは、この島から遥か遠いアメリカ大陸へと連行されたのです。

アメリカ大陸で、ジャズやヒップホップ、レゲエやサンバなどを産み出した黒人たち。彼らのルーツはこの島にあるのです。

旅行時期:2003年3月〜4月

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