※前回の記事→ダカールからフェリーで20分。沖合いに浮かぶ世界遺産の島「ゴレ島」【セネガル】
「アフリカ」
日本とは一番関わりの薄い地域、未知の土地です。
そんなアフリカ(ブラックアフリカ)への初めての訪問。2003年に訪れたセネガルとマリをご紹介します。
今回は「ゴレ島の歴史」を紹介します。
美しい島「ゴレ島」の暗く悲しい歴史です。
フェリーから見た「ゴレ島」
ダカールの沖合いに浮かぶ島「ゴレ島」
この島には悲しい歴史があります。
16世紀、新大陸を征服したヨーロッパ人たちは、現地(アメリカや南米など)でヨーロッパ市場向けの広大な農場経営に乗り出しました。
当初、農場での労働力として使っていたのは現地のインディオ。
けれども、インディオたちは、そのうち疫病にかかったり、虐殺をしたりしたことで、その数が激減していってしまいました。
そこで彼らは、アフリカから黒人たちを連れてこようと考えました。
16世紀中頃からはじまる「三角貿易」です。
ヨーロッパ産の綿布や酒、鉄砲などを、まずアフリカ西海岸へと運んで、そこで黒人奴隷と交換します。
次に、黒人奴隷をアメリカ大陸へと運び、今度は奴隷たちを砂糖や綿花、タバコといった現地で栽培された原材料と交換します。
そして、それらの原材料をヨーロッパへと運び、商品にして世界中に売るのです。
この奴隷貿易によってヨーロッパ諸国は莫大な利益を得たのだそうです。
この奴隷貿易によって新大陸に連れて行かれた黒人奴隷の数は、一説によると1200万~2000万人であると言われています。
島の端っこにある要塞の跡
大西洋に向けた大砲の遺跡
大砲がたくさん転がっていました
丘の上に残された大砲
西アフリカ各地から連行された黒人たちは、この島に集められました。
島には、フランス統治時代に作られた要塞や大砲などがたくさん残されています。
これらの城塞は、今では観光スポットになっています。
黒人たちは「帰らずの扉」から船に乗せられ、アメリカ大陸へと送りだされました。
ゴレ島の建物の跡
現在、芸術家や作家などが多く住み、観光客が多く訪れる「ゴレ島」
かつて、悲惨な歴史があったことなど全く感じさせない、のんびりとした島です。
奴隷たちの航海はとてもひどいものだったそうです。参考資料からちょっと抜粋して紹介します。
「西海岸の各地から新大陸までは、ほぼ四〇日から七〇日の航海だったが、悪天候が続けば一〇〇日を越えることもあった。これは「三角貿易」の第二辺をなしており、「中間航路」(Middle passage)と呼ばれた。「中間航路」こそは人類史上例を見ない、凄惨きわまる奴隷航海のことであった。時期によって相違はあったが、航海中の死亡率は八パーセントから二五パーセント、平均的には船上の捕虜六人のうち一人が死んだと言われる。 奴隷船の大きさは一〇〇ないし二〇〇トンで、船に積み込まれる前には男女とも頭を剃られ、所有主か会社のブランドが身体に焼き付けられた。足首に鎖を付けられたほか、全裸で、船のトン当たり一~二名が船倉にぎっしりと詰め込まれた。食事は朝夕の二回、少量の水がときどき与えられたほか、一日に二回程度は甲板に出て外気を吸うことが許された。船内は不潔そのもので、汚物と臭気が充満し、マラリア、天然痘、赤痢などの病気が襲うこともよくあった。そんな場合、死者だけでなく、病気にかかった者までが生きたまま海に投げ捨てられたために、奴隷船の後をサメの大群が追いかけたという。航海中の損失を少なくするために、船荷には多額の保険がかけられた。」
新書アフリカ史 宮本正興+松田素二編 講談社現代新書
帰らずの扉
上の写真は、「帰らずの扉」
ここから、多くの奴隷がアメリカ大陸へと送りだされたそうです。
現在、アメリカにいる黒人たち。そのルーツはここにあるのです。
旅行時期:2003年3月〜4月
※次の記事→朝から42℃!すごく暑い(熱い?)マリの首都バマコの町を歩く【マリ】


