「客家土楼」客家人が建てた巨大な円形集合住宅(福建省永定県)【世界遺産】

「客家土楼」客家人が建てた巨大な円形集合住宅(福建省永定県)【世界遺産】

客家土楼 客家土楼の旅
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中国福建省の北西部にある永定県。

福建省の大都市「厦門(アモイ)」からバスで5時間ほど。山深い田舎道をバスで走っていくと、山間に大きな円形の建物がいくつも見えてきます。

「客家」と呼ばれる人々が建てた集合住宅「客家土楼」です。2008年7月には世界遺産にも登録された建造物群です。

今回は、「客家」という人々「客家土楼」のある永定県までの道中についてご紹介します。

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土楼を建てた「客家」とはどんな人?

客家土楼永定県初渓村の土楼群

 

「客家土楼」とは、客家の人たちが住む土でできた楼閣のこと。円形や方形をした集合住宅で、福建省永定県には、写真のような土楼が4000軒以上も建っています。

 

「客家」とは、どんな人たちなのでしょうか。少し説明します。

華北の黄河流域、いわゆる「中原」と呼ばれる地域は、古代から中華文明の中心地でした。

しかしながら、この地域は戦乱や飢饉、政治不安などが頻繁に起こる激動の地でもあったため、多くの住民が戦乱や動乱が起こる度に南方へと逃れていきました。

秦の始皇帝が中国を統一した時、五胡十六国時代の動乱期、唐末の混乱期、モンゴルが侵入した南宋末期、明末清初の混乱期などなど、中原に住んでいた人々は、長い歴史の中、約5回にわたって南方の「江南」へと逃れていったのです。

客家土楼1元切手の図柄にもなっている「承啓楼」

 

移住先の江南に移り住んだ彼らでしたが、そこにはすでに先住の人々が住んでおり、当然、彼らとの軋轢が生まれます。そのため、中原からやってきた彼らは、人のいない山あいに住むことを余儀なくされました。

「客家」とは「よそもの」という意味。彼らは「よそもの」として山間部に隠れ住み、独自の文化を保持することとなったのです。

この独自の文化とは、古代の中原の文化のこと。そのため、彼らが話す「客家語」は北方中国語の古語とも呼ばれていて、例えば数字の発音など、日本語にも似ているところがあるのだとのこと。

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現在の「客家」の人々

客家土楼円形の土楼と方形の土楼

 

現在、「客家」の人々は、広東省・福建省・江西省・湖南省・四川省などの山間部に住んでいます。そして、彼らはマレーシアシンガポール、タイなどの海外へも移り住むようになりました。

客家人の特徴は↓

  • 強い団結心
  • 進取・尚武の精神
  • 文化・伝統保持への自信
  • 教育の重視
  • 政治への高い指向性
  • 女性の勤勉性

「客家-中国の内なる異邦人 講談社現代新書 高木桂蔵著」

華僑の多くは商売には情熱を注ぐものの、政治にはあまり関わろうとはしない人が多いそうですが、客家人は政治に積極的に関わり、政治家も多く輩出しています。

客家の有名な政治家というと、中国近代革命の祖である「孫文」、中国の市場経済化を推し進めた「鄧小平」、太平天国の指導者である「洪秀全」、台湾の「李登輝」、シンガポールを建国した「リー・クアンユー」などがいます。

ちなみに、シンガポールは客家人が建てた初めての国家なのだそうです。

また、学者にも客家は多く、陽明学の祖である「王陽明」、朱子学の祖「朱子」も客家です。

客家土楼こういう土楼が永定県には4000もある

 

少数派の流浪の民で、教育・政治に熱心。強い団結力があって独自の文化を保持し続けている。

ユダヤ人にそっくり! 客家は「中国のユダヤ人」と呼べる存在です。

そんな客家人の造った建物が、この「客家土楼」

少数の移民として外敵から身を守るためには、集団で結束し、要塞のような家に住む必要があったのでしょう。

「客家土楼」は、客家人が生きていくために生み出した知恵のたまものなのです。

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福建省の町「廈門(アモイ)」からバスで永定へ

アモイ 廈門福建省廈門にあるコロンス島の風景(対岸が廈門の街)

 

「客家土楼」が多くある福建省永定県へは、「廈門(アモイ)」からバスで向かうのがスタンダードな行き方。

廈門は、福建省南部、九龍川河口に位置する都市。中国五大経済特区のひとつとして、著しい発展を遂げている町のひとつです。人口は264万人。

廈門の対岸には台湾があり、閩南語(びんなんご)と呼ばれる台湾語と同じ方言が一般に話されています。

廈門は、1842年のアヘン戦争の敗北によって、列強に開放させられた港のひとつとしても知られていて、19世紀から20世紀初頭にかけて、街の沖合にある「コロンス島」に、イギリス租界や共同租界が設置されていました。

そのため、コロンス島には今でも当時の洋館が多く残されています。

アモイ 廈門廈門の海岸沿いの目抜き通り

 

廈門に宿泊していた私は、朝6時に起きて、タクシーでバスターミナルへと向かいました。

前日、すでにバスターミナルには訪れていて、目的地である「永定」への切符を購入していました。値段は53元(795円)です。

バスはちょっとボロいですが、アジアなどでは普通に見かけるレベルのバス。

途中、「龍山」「和渓」「龍岩」といった町を経由し、ところどころでお客を拾いながら永定へと向かいました。

アモイ 廈門廈門から永定までのバスの車内

 

バスは、始めは高速道路を走っていましたが、だんだん険しい山道へと入っていきました。

相当な田舎です。観光客どころか、地元の人以外は訪れることなどなさそうな田舎。

車内では、ハリウッド映画のDVDが上映されたり、中国のカラオケソングのPVが流されたりしました。

バスは5時間ほどで永定に到着。永定はそこそこ栄えている印象の町でした。

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永定からバイタクに乗り、目的地の洪坑村へ

バスが永定に到着すると、すぐにバイタクのお兄ちゃんが車内にまでやってきて客引きを始めます。

土楼まで20元(300円)だそうです。

他に当てもなかった私は、彼のバイクに乗ることにしました。

このバイタクのお兄ちゃん、中国語しかしゃべれません。私も中国語がしゃべれないので、会話は身振り手振りと筆談になりました(漢字で意思疎通ができることが多かったです)。

客家土楼永定県初渓村の土楼群

 

お兄ちゃんの運転するバイタクは、私と私の荷物を乗せ、山道を進んでいきます。

誰もいない山道。言葉の全く通じないお兄ちゃんとふたりきり。

空はどんよりと曇り、そのうち雨がぽつぽつと降ってきました。

かなりの心細さでしたが、お兄ちゃん、きっちりといくつかの土楼を周って、目的地の洪坑村へと連れて行ってくれました。

洪坑村に到着したのは夜。

バイタク代は、結局150元(2,250円)になりました。

最初の土楼に着いたとき、20元はここまでで、洪坑村までは150元くれないと行かないと言われたからです。

旅行時期:2003年1月

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