聖なる人、フランシスコ・ザビエルのいた「ゴア」【南インド】

※前回の記事→黄金のゴア!パナジの街とオールド・ゴア、そして、ビーチ【南インド】

「インド」(India:भारत)

4500年を超える歴史を持ち、12億人の人口を抱える大国「インド」。

スパイスを使った『料理』、輪廻や解脱の考えがある『哲学』や『宗教』、周期と即興で作られる『音楽』、歌と踊りがメインの『映画』、サリーやターバンなどの『ファッション』、どれも「インド」的!

独特で多様な世界「インド」の旅をご紹介します。

今回は、「フランシスコ・ザビエルとゴア」です!

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フランシスコ・ザビエルは、ここ「ゴア」から日本へと旅立ちました。

インド ゴア

「フランシスコ・ザビエル」

この名前を知らない日本人はたぶんいないと思います。

キリスト教にまつわる人物の中で、彼はおおもとのキリストやマリアを除けば最も日本人によく知られた人物なのではないでしょうか。

ザビエルが生きたのは16世紀。

1517年にマルティン・ルターは「九十五か条の論題」を発表します。

ここには、「福音主義」が提唱されていました。「福音主義」とは、信仰生活を聖書に示されているような、キリストと各個人との直接的で内面的な関係に求めるという考え方のこと。

つまり、教会や聖職者に寄進するよりも、個人が直接キリストと会話する方が正しいという考え方です。

この考え方は教皇庁や司教たちの激しい反発にあったものの、徐々にヨーロッパ全体に浸透していきました。いわゆる「プロテスタント運動」というものです。

もちろん対抗のカトリック側(教皇庁や司教側)も黙ってはいませんでした。プロテスタント運動に対してカトリックも対抗改革を起こしたのです。その代表的存在が、イエズス会の創設です。

1534年、イグナティウス・デ・ロヨラと七人の同志は、パリ・モンマルトルの丘の上にあるディオニソス聖堂で「貞潔、清貧、エルサレムへの巡礼」という誓願を立て、イエズス会を創立します。

フランシスコ・ザビエルは、このイエズス会に所属していました。

また、この時代は「地理上の発見」、いわゆる大航海の時代でもありました。

既に1492年にはコロンブスによってアメリカ大陸が「発見」されていましたし、1498年にはヴァスコ・ダ・ガマによりインド航路が開拓されていました。

ヨーロッパ人にとって世界は大きく広がっていたのです。

イエズス会は世界布教の熱意に溢れていました。西に向かえば新大陸、南にはアフリカ、そして、東にはインドと中国があります。

イエズス会は1540年、教皇パウロ三世により修道会として正式に認可されると、その翌年にはさっそく世界布教への船出に宣教師を出発させています。

その先陣を切ったのがフランシスコ・ザビエルなのです。

ザビエルが最初に向かったのは、インドの「ゴア」でした。

16世紀の初頭にポルトガルの艦隊により占領され、1530年には既にポルトガル領インドの首府となっていたゴア。

ザビエルはまず、布教の拠点としてそこを目指したのです。

インド ゴア

ゴアの中心「パナジ」。

猛烈な暑気に包まれた10月のある日、私はそこを訪れました。

インドの他の町からやって来ると、この町はとても異質に見えます。

それも当然のこと。ここゴアは1961年にインドに併合されるまで、約400年もの間、ポルトガルの植民地だったからです。

ザビエルが滞在したといわれる「黄金のゴア」と呼ばれた町は、この「パナジ」からマンドヴィー川を10キロほど遡ったところにあるのだとのこと。

私は、その「オールド・ゴア」に行ってみることにしました。

オールド・ゴアへはバスで25分。かつて、ポルトガル領インドの首府があった「オールド・ゴア」ですが、今やほとんど街らしき街もなく、当時のままの姿をした教会がいくつか残っているだけでした。

それらの教会群の中でも最も重要な建物は、1594年に建立された「ボム・ジェズ教会」です。

インド ゴア

「ボム・ジェズ教会」は、フランシスコ・ザビエルゆかりの教会として有名な所で、観光客の多くもまずここを目指します。

バロックの装飾が施された正面、ラテライトの赤茶けた色が南国の強烈な陽光に照り返され目に眩しいです。

私は多くの観光客たちと一緒に教会の中に入っていきました。

インド ゴア

建物はシンプルな構造をしていました。

側廊のない単廊式の礼拝室、ガランとした堂内。その中を観光客たちのざわめきが乱反射するように響き渡っています。

教会堂の奥には金箔で埋め尽くされた豪華な祭壇がありました。祭壇の前には人だかりがしていて、近づいてみると、多くの地元の信者たちがイエス・キリストに頭を垂れ、真摯に祈っていました。

そして、その横には欧米から来た人たちもゴアの人々と同じように十字を切っているのが見えます。

彼らは深い感慨に耽っているはずです。

ここはあのザビエルがアジア布教の拠点とした教会、強烈な信仰の熱意によって遙か東方へと旅立った拠点なのです。

キリスト教を信じてはいない私にはその感慨はわかりません。けれども、私には彼らとはまた違った感慨がありました。

「フランシスコ・ザビエル」

彼が来たことにより日本という国の運命は大きく変わりました。彼がいなかったら日本は今ある姿ではなかったのではないかと思います。

ザビエルがゴアに着いた時、既にここにはポルトガル人たちが大勢居住しており、街にはいくつもの教会が存在していたそうです。

ザビエルはゴアに到着すると、ここに建立されていた聖パウロ学院をキリスト教信仰の養成所と定め、自身はインド各地を周り布教に専心しました。

インド コーチン

写真は、ケララ州最大の都市である「コーチン」の教会。

この「コーチン」もザビエルが布教を行った所として知られている町です。

この街の歴史的地区「フォート・コーチン」を散策している時、キリスト教会のミサを偶然見ました。

明るい雰囲気の堂内には大勢のインド人信者たちがいて、南国的なメロディーの宗教歌を皆で唱和していました。

「ハレルヤ、ハレルヤ」

それは、ヒンドゥー教の寺院ばかり目立つインドの中で聞くと、とても新鮮に聴こえました。

ザビエルが布教したキリスト教は、ヒンドゥー教世界に囲まれながら、現在でも生き長らえているのです。

マレーシア マラッカ

ザビエルはその後、インドから「マラッカ」へと渡ります。

マラッカは、マレーシアの首都「クアラルンプール」からバスで2時間のところにある海沿いの町。

ザビエルが訪問してから約450年後、私はマラッカを訪れました。

「マラッカ」という町はザビエルにとって決して忘れることの出来ない町であったに違いありません。

ザビエルはこの町で、彼の人生を方向付ける運命的な出会いをすることとなるのです。

彼が出会った運命の人、それは「ヤジロウ」という日本人でした。

ヤジロウは鹿児島出身の唐物問屋でした。かつては武士の一人として馬に乗り刀を差していたらしいのですが、自らの領主が滅ぼされた後は、商人として生計を立てていたそうです。

ですが、ある時、彼は人を殺めてしまいました。逃げ場のなくなった彼は、貿易船に乗り込み南方へと逃れたのです。

マラッカに身を潜めたヤジロウですが、彼の頭には常に人を殺めてしまったという悔恨の念がありました。

そんなある日、彼はこの地にインドのゴアから「聖なる人」と呼ばれる偉い宣教師がやってくるという噂を耳にします。

彼はその宣教師「フランシスコ・ザビエル」と出会い、自分の罪を告白したいと考えるようになりました。

マレーシア マラッカ

1547年12月7日、ヤジロウはザビエルと出会いました。

ヤジロウと出会い、彼の話を聞き、日本という国を知った時のザビエルの驚きと喜び、それはどれほどのものであったでしょうか。

ザビエルは、これまでもインドやマラッカ、モルッカ諸島などで布教の成果をあげてはいましたが、さらに有望な新天地が見つかった、そう思ったに違いありません。

というのも、ヤジロウはとても聡明な人物だったからです。一説によるとヤジロウは好奇心旺盛で向学心が強く、仏教の経典や中国の古典の知識もあるほどの学の持ち主であったそうです。

ヤジロウのような人が多くいる国であるならば、布教はこれまでにない成果を収めるに違いない。

ザビエルはそんなことを考えたはずです。

ザビエルはさっそくヤジロウをゴアへと送り、聖パウロ学院で神学を学ばせました。

そして、1548年5月20日、ヤジロウは2人の日本人の仲間と共に洗礼を受けることとなります。

洗礼名は「パウロ・デ・サンタ・フェ(聖信のパウロ)」。

機は熟しました。1549年4月19日、ザビエルは洗礼を終えたヤジロウたちを従え、ついに日本へと旅立ったのです。

インド ゴア

1549年8月15日、ザビエルとヤジロウは念願の日本に到着しました。

そこは鹿児島、島津貴久の治める薩摩の地でありました。

初めて見る日本の地、ザビエルの心は高鳴ったことでしょう。そして、ヤジロウは約2年ぶりに見るふるさとの風景に目頭を熱くしたに違いありません。

島津から布教の許可を得たザビエルは、そこで精力的に活動を行いました。

約1年の滞在期間中、百人が洗礼を受けることになったのだそうです。領主島津も受洗した百人のうちの一人でした。

翌年、ザビエルは平戸へと向かいます。ちょうどその頃、ポルトガル船が平戸に来航しているということを聞いたからです。

平戸に着くと、ザビエルはすぐさま領主、松平隆信から布教の許可を得ます。

そして、たった2ヶ月の間に百人を受洗させました。

けれども、順調だったのはここまででした。

ザビエルはその後、山口と堺を経由し京都へ向かいます。

天皇や将軍と出会い、日本国中への布教の許可を得ようと考えたからです。

ところが、京は、外国に慣れ貿易の旨みをよく知っていた鹿児島や平戸とは全く違っていました。

ザビエルは京都の御所で門前払いを受けてしまうのです。

当時の京は応仁の乱の戦乱によって荒れ果て、焼け野原に近い状態でした。

御所の主人にとって、ザビエルなどという異国の訪問者の相手をする、そんな余裕はなかったのかもしれません。

それに当時の天皇は全く権力を持ってはいませんでした。

結局、天皇だけでなく、近江にいる将軍義輝と会うことも叶わなかったザビエルは、失意の下、京から下っていきました。

天皇さえキリスト教に改宗させられれば日本をキリスト教国にすることができる、ザビエルはそう考えていたようです。

けれども、そんなに簡単にいくわけがありません。日本にだって一千年にも及ぶ信仰の歴史がその時すでにあったのです。

しかし、ザビエルは布教を止めることはありませんでした。

その後、山口、豊後において彼はさらに多くの信者を獲得し、この日本の地にキリスト教の種を撒き続けることとなります。

そして、その種は次第に成長し、いつしか日本の為政者にとって無視できない存在となってゆくのです。

一説によると、最盛期である1605年頃のキリシタン人口は四十万を数えたそうです。

当時の日本の人口が1200~1500万人であったことを考えると驚くべき数。ザビエルの撒いた種は大きな幹へと成長していったのだといえます。

けれども、そんな幹もたった五十年で切り落とされてしまうこととなります。

1613年(慶長18年)、徳川幕府は禁教令を発布しました。キリシタンの弾圧です。

キリシタンは踏絵をさせられ、改宗を迫られました。檀家制度の下、人々は必ずどこかの寺に所属し戸籍を登録することが義務付けられ、葬儀の際は必ず所属する寺の僧を呼ばなければならなくなりました。それをしなければキリシタンの疑いをかけられ処罰されることとなったのです。

信仰を捨てきれないキリシタン大名や一般信者たちはマニラやマカオへと逃れました。

そして、ある者は日本に踏み止まり、殉教していきました。

以後、日本におけるキリスト教は衰退の一途を辿ることとなります。

ザビエルの幹は徳川幕府という斧によって切り落とされてしまいました。ザビエルの野望は完全に潰えたのです。

けれども、ザビエルの来航、そして、彼によるキリスト教の布教はこの国に大きな衝撃を与えました。

恐らくそれは、日本の歴史が始まって以来の衝撃であったに違いありません。

ザビエルの布教が日本の「鎖国」への引き金となり、アジアの他のどの国とも違う独特の文化を形成する礎ともなったのです。そして、日本はある意味、鎖国によって西洋列強の植民地になるという難を逃れました。

ザビエルの布教は、その遠因であるといっても差し支えが無いのではないでしょうか。

インド ゴア

ゴアの「ボム・ジェズ教会」の金箔に埋め尽くされた祭壇の右手には小さな祭室があります。

人々の祈りの様子を眺めた後、私はその祭室へ向かって歩いていきました。

ザビエルは日本を教化した後、次は中国に行くことを考えていたそうです。

けれども、その途上、中国南部の川上島で熱病により息を引き取ったのだといわれています。

1552年12月3日のことでした。

彼の最後を看取ったのは、忠実な中国人信者アントニオただ一人だけだったのだそうです。

ザビエルの遺体はマラッカに移され、そこで9ヶ月間安置された後、ゴアへと運ばれました。

そして、現在、その遺体はこの「ボム・ジェズ教会」にあります。

インド ゴア

祭室には巨大な棺が置かれていました。それを黒山の人だかりが取り囲んでいます。

人ごみの間からその銀色の棺を覗き見ていると、人々の会話の端々に「ザビエル」の名が混じるのが聴こえてきます。

銀色の大きな台座の上部には、小さなガラス窓の付いた棺があり、そこからは微かに人間の姿らしい物が見えました。

どうやらあれがザビエルの遺体のようです。

一説によると遺体は死後、埋葬されたのだそうですが、決して腐ることはなかったのだとのこと。

ザビエルはイエズス会の東方布教の尖兵でした。

その志が神の教えを広めるという純粋な信仰にあったということは疑いありませんが、当時、世界中を制覇しようとしていたポルトガルやその同胞スペインの野心も背景にあったことは間違いありません。

けれども、彼が日本に残した遺産、日本の歴史における貢献度は計り知れません。

ザビエルがいなかったら、今の日本はなかった。そう思うのです。

私は微かに見えるザビエルの遺体を眺めながら、そんなことを考えていました。

周りを取り巻いている褐色の肌をした人々のざわめきが聴こえてきます。真夏の午後の気だるい空気の中、サリーを纏った女性が静かに十字を切っているのが見えました。

日本の歴史を変えた「フランシスコ・ザビエル」。

私は目を瞑り、日本式に両手を合わせると、静かに祈りを捧げました。

※次の記事→首都デリーからマドラス(チェンナイ)へ、51時間列車の旅【南インド】

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