ダブリン歴史散歩(先史時代から現代まで)【アイルランド】

ダブリンの町 【アイルランド】

肌寒い四月のダブリン

空は灰色の雲に覆われ、時折降る雨が建物を冷たく濡らしています。

ロンドンから夜行バスで12時間、アイルランドの首都ダブリン(Dublin)はロンドンとは比べ物にならないほど落ち着いた静かな街でした。

スポンサーリンク
PC レクタングル (大)

小雨が降る春のダブリンの街を散歩

オコンネル通り、ダブリンの町 【アイルランド】オコンネル通り

街を東西に貫くリフィ川、それと交差する大通りがメインストリートである「オコンネル通り」です。

中央に歩道を挟んだ広い通りにはバスや車が行き交い、人々は商店の品々を物色して廻っています。人通りは多くありません。

ダブリンの街は、ほとんどの建物が5階建て以下の高さで統一されています。

空は広く大きく感じられ、道幅が広いこと、人通りが少ないこともあって、街からはとても開放的な印象を受けました。

ダブリンの町 【アイルランド】リフィ川にかかる橋

リフィ川の朝、ダブリンの町 【アイルランド】リフィ川の日の出

ダブリンの町 【アイルランド】統一された高さの建物

街を歩いていて印象的だったのが、中国人がやたら多かったということ(2003年当時)。

コンビニとか、ファーストフード店でかなりの数が働いています。

違和感なく、普通にたくさんいるという感じ。

彼らは留学生だそうで、アイルランドはアメリカやイギリスよりもビザが取りやすいらしく、英語を学ぶ中国人学生の多くがアイルランドを目指していたんだそうです(現在は取得が厳しくなってしまった様子)。

また、留学生だけでなく、出稼ぎの中国人もかなりの数が来ていたようですが、金融危機以降は多くの人が帰国した様子。

トリニティ・カレッジ【アイルランド・ダブリン】トリニティ・カレッジ

オコンネル通りの中央に立つ、「解放者」ダニエル・オコンネル像を見ながらリフィ川を渡ると、すぐ左手に「トリニティ・カレッジ」が現れます。

「トリニティ・カレッジ」は、1592年に設立されたというアイルランド最古の大学です。

正門をくぐると、重厚な建築物が建ち並んでいました。

青々とした中庭の芝生、最高学府の学生たちが颯爽と歩いています。

トリニティ・カレッジ【アイルランド・ダブリン】トリニティ・カレッジのキャンパス

私は見ることが出来ませんでしたが、ここにはケルト美術の最高峰と言われる福音書の装飾写本「ケルズの書」があるのだそうです。

「ケルズの書」とは、8世紀に製作された写本で、ケルト特有の渦巻き文様や動植物の組紐文様などが描かれた素晴らしい装飾写本です。

その写本が1732年建造の美しいライブラリーに保管されています。

ちなみに「ケルト」とは紀元前500年頃から150年頃までの間にアイルランドに波状的に来訪した「ケルト人」のことです。

ケルト文化は、アイルランド人のアイデンティティを表す最も重要なキーワードのひとつです。

グラフトン通り、ダブリンの町 【アイルランド】グラフトン通り

しばらく歩くと、歩行者天国となっている「グラフトン通り」にぶつかります。

ここはカフェやブティック、専門店やレストランが並ぶダブリン一のお洒落な通りです。

普段はストリートミュージシャンやパフォーマーの芸が見られるといいますが、小雨のぱらつくこの日は誰もいませんでした。

「グラフトン通り」を抜けると、「セントスティーブンスグリーン」が現れます。

9ヘクタールのこの公園は、ダブリンの人々にとっての憩いの場。

私は木陰にあるベンチに座り、冬枯れの木々のブラウンと雨露に濡れた芝生のグリーンを眺めながらミートパイ(2.5ユーロ 330円)を食べました。

ダブリンの街角【アイルランド】

公園を出て北東に少し歩くと、国立博物館(National Museum of Ireland)が見えてきます。

ここでは、先史時代やケルトの時代から、中世、独立に至るまでの歴史を様々な展示品を通して知ることが出来ます。

私はまずここで、この国の大まかな歴史を見ておこうと思いました。

先史時代からケルト時代(アイルランド歴史散歩)

博物館は、先史時代からケルトの時代、バイキング時代、中世から20世紀の独立まで、時代ごとにブースが区分けされています。

その中でまず、私の興味を惹いたのは、先史時代に関する展示でした。

アイルランドに初めて人類がやってきたのは、紀元前7000年頃の中石器時代だと考えられています。その後、紀元前3000年頃に新石器文化を持った農耕民が、紀元前2000年頃には青銅器や金細工を加工する技術を持った人々がこの島に渡ってきました。

紀元前3世紀頃にケルト系のゲール人が侵入するまで続いたこれらの先史文明ですが、未だに深い謎に包まれているそうです。

ニューグレンジ遺跡(ボイン渓谷の遺跡群)【アイルランド】「ニューグレンジ」

ニューグレンジ遺跡(ボイン渓谷の遺跡群)【アイルランド】渦巻き文様

展示品は素晴らしいものばかりです。

紀元前2000年から700年頃に作られたという黄金製の首飾りや腕輪がたくさん展示されています。

独特の渦巻きや組紐の文様に彩られたそれらの装飾品は、とても精緻で見ごたえがあります。

島に無数に存在する先史時代の遺跡も紹介されていました。

エジプトのピラミッドよりも古いとされる「ニューグレンジ」の巨大な円形の墳墓や、イギリスのストーンヘンジに似た「ストーンサークル」、石の支柱の上に水平な巨石を載せた「ドルメン」と呼ばれる遺跡などなど。

それらの用途や建造した民族など、どれも正確なことはわかっておらず、謎なのだそうです。

ロック・オブ・キャシェル【アイルランド】

次の時代「ケルト」の展示へと向かいます。

アイルランドにキリスト教が伝わったのは5世紀中頃のことです。

守護聖人である聖パトリックという人物の努力により、イエス・キリストの教えはこの島に住んでいたケルト人たちに広まっていったのだそうです。

キリスト教以前、アイルランドのケルト人たちはドルイド教を信仰していました。

自然崇拝的なドルイド教の濃い伝統を持った彼らは、ギリシャやローマとはまた異なる価値観、芸術性を持っていたのだそうです。

それがここで伝わったキリスト教の文化や信仰と融合し、大陸とは違った、この国独自のキリスト教文化を生み出していくことになるのです。

6~8世紀のアイルランドは「聖人と学者の島」と呼ばれるほど、キリスト教文化や学芸が発展した時代でした。

ゲルマン民族の大移動により蹂躙された大陸とは違って、この島は平和でした。

その平和の下、ローマの影響のないアイルランドのキリスト教は独自の発展を遂げ、後の8世紀フランスのカロリング・ルネサンスに大きな影響を与えることになるのです。

ロック・オブ・キャシェル【アイルランド】

このアイルランドの黄金時代、その文化は修道院を中心に発展しました。

キリスト教というモチーフがこの国の文化と芸術を大いに輝かせたのです。この国立博物館にもその時代の素晴らしい遺物がいくつも展示されておりました。

アイルランドの象徴ともいわれる「タラのブローチ」やアイルランド金属工芸品の最高峰「アダ―の聖杯」と「聖パトリックの鐘」は、いずれも精緻な渦巻き、組紐文様の描かれた、この時代を代表する工芸品です。

ダブリン、トリニティ・カレッジの図書館には、装飾写本「ケルズの書」がありますが、大小の渦巻き紋様がうねうねとうねり、動物や人間の姿をモチーフにした組紐紋様が紙面一杯に複雑に絡み合っている様子は、これがキリスト教なの?と思ってしまうほどアニミズムの風を感じさせるものです。

先史時代からケルト時代の展示を観た私は、中世、近世のブースへと足を運びます。

ロック・オブ・キャシェル【アイルランド】

プロテスタントの支配(アイルライド歴史散歩)

16世紀、アイルランドはイギリスに征服されることとなります。

しかし、それ以前からアイルランドは、イギリスの強い圧迫を受けていました。

12世紀にローマ法王から直接叙任される四大司教区制が確立し、完全にカトリック化していたアイルランドですが、その頃から隣のイングランドがアイルランドに介入し、1171年にはイングランド王ヘンリー2世が来島、アイルランド宗主権を確立していたのです。

その後、地元のゲール族長側の盛り返しもあり、イングランドの支配は有名無実化します。

けれども、イギリス、テューダー朝のヘンリー8世の時代になると、それまでの間接統治ではなく国王の任命した常任総督による直接統治が実施されるようになりました。

ちょうどその頃、ヘンリー8世はローマ教皇と絶縁し、イギリス国教会を設立。自らがその主権者であると宣言しておりました。

修道院を廃止し、その土地、資産を没収するという宗教改革を行っていたのです。

そして、その嵐はこのアイルランドにも及びました。

彼はローマ教皇に変わって国王の至上権を人々に認めさせ、1541年、ついにアイルランド国王を名乗ったのです。17世紀、イギリス本国で清教徒革命が起こります。

悪名高い、清教徒クロムウェルによって国王は処刑され、イギリスに初めて共和政が打ち立てられたのです。

しかし、それはアイルランドにとっては悪夢の始まりでしかありませんでした。

クロムウェルは国内の反対派を押さえると、すぐさまアイルランドに対する侵略を始めたのです。

アイルランドカトリックは、反クロムウェルの王党派と組み、クロムウェルに対抗しました。

しかし、圧倒的な軍事力を持ったクロムウェルは手強かったのです。

ドロヘダやウェックスフォードでは、残忍な略奪と虐殺が繰り返され、クロムウェルの征服事業は凄惨を極めました。

そのうちアイルランド側は敗北します。

そして、1652年、ついにクロムウェルによるアイルランド植民が始まるのです。

ダブリンの町 【アイルランド】

その後もアイルランドの悲劇は続きます。

1688年、イギリスで名誉革命が起こると、その主戦場はアイルランドとなりました。

イギリスでは無血革命として讃えられているこの革命ですが、ここアイルランドは流血の舞台となったのです。

1690年、ボイン川の戦いにより、アイルランドのカトリック教徒はプロテスタント側の国教徒、ウィリアム3世に敗れ去りました。

カトリックがプロテスタントに敗北し、アイルランドはイギリスに敗れたのです。

ここに以後200年にも及ぶプロテスタントによるアイルランド支配が確立することとなります。

プロテスタントによる支配は過酷でした。

1695年に制定された刑罰法により、カトリックは官吏や軍人、教師になることを禁じられ、ミサを行う自由まで奪われてしまいました。

土地や財産の相続についても制約が課され、カトリックの有力者は次々に没落していきました。

選挙権も剥奪され、少数のプロテスタントが大多数のカトリックを支配する構図が完全に出来上がったのです。

博物館を出て川沿いに西へと進むと、テンプルバーエリアに入ります。

テンプルバー、ここは若者の集う歩行者天国です。

石畳の通り沿いにはおしゃれなレストランやカフェが建ち並び、ギャラリーやパブが軒を連ね、様々なストリートパフォーマー達が賑やかな空気を作り出していました。

アイルランド最大の聖堂、聖パトリック・チャーチ【アイルランド・ダブリン】「聖パトリック大聖堂」

テンプルバーから西へ。

英国支配の象徴である「ダブリン城」やプロテスタントの総本山である「クライスト・チャーチ」の姿を横目に見ながら南へしばらく歩くと、「聖パトリック大聖堂」にぶつかります。

聖パトリック大聖堂

灰色の石造りのこの聖堂は1225年の創建。アイルランドで最も大きい聖堂だそうです。

この聖堂は「ガリバー旅行記」の作者ジョナサン・スウィフトが1713年から1745年まで大主教を務めていたところで、彼は入り口近くの床に愛人ステラと共に埋葬されています。

アイルランド最大の聖堂、聖パトリック・チャーチ【アイルランド・ダブリン】「聖パトリック大聖堂」の堂内

聖堂はゴシックスタイル。

見上げるような身廊のアーチ、両脇に並ぶいくつものステンドグラス、床に敷き詰められた色とりどりのモザイクタイル、美しい聖堂です。

聖パトリック大聖堂は、かつてはカトリックの聖堂だったそうだですが、先ほど通りかかったクライスト・チャーチと同様、16世紀の宗教改革によってプロテスタントの聖堂に変えられてしまっています。

けれども、カトリックへの差別がなくなった現在は、この聖堂も教派を越えた全キリスト教の教会として礼拝を行っているようです。

アイルランド最大の聖堂、聖パトリック・チャーチ【アイルランド・ダブリン】「聖パトリック大聖堂」のモザイク

アイルランド最大の聖堂、聖パトリック・チャーチ【アイルランド・ダブリン】「聖パトリック大聖堂」

1800年、イギリスによるアイルランド併合法が成立しました。

この法律により、アイルランドは名実ともイギリスの一部となりました。

ここで一人の指導者が現れます。

「解放者」といわれるダニエル・オコンネルです。

彼はアイルランド史上初めて、カトリック大衆の解放運動を組織した人物として知られています。

オコンネルは、粘り強くイギリスへの抵抗を続け、1829年、ついに「カトリック解放令」を勝ち取ることに成功しました。

この法律により、カトリック教徒はようやく議会での議席と、公職に就く権利を取り戻したのです。

けれども、アイルランドの独立への道はまだまだ遠く険しいものでした。

1916年のイースター蜂起、それは、未だにこの国の人々の愛国心を最もくすぐる出来事のひとつであるといえるのかもしれません。

独立と分裂(アイルランド歴史散歩)

第一次世界大戦中のイースターの日、アイルランド義勇軍は武装蜂起しました。

しかし、イギリスの圧倒的な武力の前に一週間足らずで鎮圧され、指導者であった十五名は処刑されてしまいます。

当初、アイルランド市民は、この蜂起に対して冷淡な反応を示していました。

けれども、十五名が処刑されたことにより世論は一変し、アイルランド国民の愛国心は一気に燃え上がるように火が点くこととなるのです。

大戦終結後に行われた総選挙では、イースター蜂起で宣言された共和国精神の継承を訴えた、シン・フェイン党が圧勝します。

そして、1919年には国民議会の結成を宣言。その頃、義勇軍によりIRA(アイルランド共和国軍)も結成されています。

さすがの大英帝国も民族自決の時代の流れには逆らえず、アイルランドを手放さざるを得なくなってきました。

そこで、1920年、イギリスは北の6州と南の26州に別個の自治を認める「アイルランド統治法」を制定したのです。つまり、南北の分断です。

その結果、1922年、南の26州にアイルランド自由国が誕生して自治権が認められることとなるのですが、北の6州は、イギリス連合王国へと再編入されてしまいます。

北の6州は、現在の北アイルランドと重なります。

カトリックとユニオニスト(北はイギリスに留まり続けるべきだと考える人々)、イギリスの三つ巴の血で血を洗う北アイルランド紛争の源は、ここにあるのです。

南の26州が正式に共和国として成立したのは1949年、第二次世界大戦後のことでした。

けれども、北の6州は独立することは叶いませんでした。島の地図は今もなお、二色に塗り分けられているのです。

南のアイルランド共和国は、1955年に国連に、1973年にはECに加盟を果たします。

一方、イギリス領の北アイルランドでは、60年代後半、ポンド危機による社会不安が高まると、カトリックへの差別が露骨化していきます。

カトリックたちは、1967年、選挙制度や雇用差別に対する公民権運動を起こしますが、デモがユニオニストに攻撃されたのをきっかけに、IRAがカトリック側の自衛組織として復活、プロテスタント側との対立が激化していきます。

これを受けてイギリスも治安維持のため英軍を北に派遣、ユニオニストとイギリス、カトリックの三つ巴の様相を呈するさ中、1972年に「血の日曜日」事件が起こりました。

デリーの公民権デモに対し英軍が発砲し、13名の死者が出たのです。

これ以降、紛争は泥沼化、血で血を洗う抗争が繰り返されます。

しかし、20世紀末、この状況に大きな変化がありました。

1997年、ブレア首相の呼び掛けに対してIRAが停戦に応じ、シン・フェイン党とイギリスとの和平交渉の末、1998年4月10日、ついに北アイルランド和平合意がなされることとなったのです。

そして、2005年7月28日には、IRAが武装闘争の終結を宣言、その後も分派であるRIRA(「真のIRA」)およびCIRA(「IRA継続派」)などの活動は小規模ながら続いていましたが、2007年5月には、プロテスタント系武装組織アルスター義勇軍の活動停止宣言もなされており、現在は和平が継続されている様子です。

さいはての島へゆく(アラン諸島 イニシュモア島)【アイルランド】

アイルランドを語る上で忘れてはならないのが移民の存在です。

現在、世界中にアイルランド系であると見なされている人の数は、8000万人にも及ぶと言われています。

ジャガイモ飢饉とアイルランド移民(アイルランド歴史散歩)

アイルランド系の人々が多く居住している国としては、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、アルゼンチン、南アフリカなどが挙げられ、特にアメリカには、全人口の約15%、3400万ほどのアイルランド系の人が居住していると言われています。

19世紀初頭、イギリスに併合されたアイルランドは、経済的に困窮しました。

資源に乏しく、工業化も進まなかったアイルランドは、人口増加と共に深刻な失業問題を引き起こしたのです。

そのため、1800年代前半には、80万人以上の人が海外へと移住しました。

そして、それに追い打ちをかけたのが、1845年の「ジャガイモ飢饉」です。

1845年、アイルランドはジャガイモの胴枯れ病によって大飢饉に襲われます。

ジャガイモは、プロテスタント支配下のカトリック小作人たちの主食でした。

貧しいカトリックたちは反当り収穫量の多いジャガイモと脱脂乳を常食とするしかなかったのですが、そのジャガイモが食べられなくなってしまったのです。

アイルランドは、この飢饉により、1849年までの4年間で100万人の死者を出すこととなります。

そして、その飢餓を逃れるため、100万人がイギリスやアメリカへと渡りました。

大飢饉が落ち着いた後も移民は続き、飢饉以前は800万人を数えた人口は、1911年には410万人にまで減少してしまったそうです(現在のアイルランドの人口は約420万人)。

ニューヨーク5番街、ロックフェラーセンターの前には、ニューヨークに住むアイリッシュの拠り所である「聖パトリック大聖堂」があります。

毎年3月17日には、世界中のアイリッシュコミュニティーで「セント・パトリックス・デイ」(アイルランドにキリスト教を広めた聖人聖パトリックの命日)が祝われ、パレードが行われますが、このパレードの発祥は、ここニューヨークです。

現在では、約15万人もの人がパレードに参加するそうです。

アメリカに到着した貧しいアイルランド移民たちは、まず、鉄道や運河の建設工事などの低賃金肉体労働や、警察官や消防士など、危険で人があまりやりたがらない仕事に従事しました。

新教徒の国であるアメリカでは、カトリックであるアイリッシュは、イタリア系同様、大変な差別を受けたため、彼らはそういった仕事に就くしかなかったのです。

こうした膨大な数のアイルランド移民の労働力は、アメリカが20世紀に大国になるための大きな原動力となりました。

アメリカが今の地位にあるのも、アイリッシュたちが底辺で支えたおかげだと言っても過言ではありません。

ニューグレンジ遺跡(ボイン渓谷の遺跡群)【アイルランド】

また、文化的な面でもアイルランド移民はアメリカに大きな影響を与えました。

例えばカントリー&ウエスタンはアイルランド民謡がルーツだとされていますし、映画や演劇、文学でもアイリッシュ・アメリカンは大きな影響を与えています。

(ちなみに映画「風と共に去りぬ」に出てくる「タラ」は、アイルランドのルーツ、ケルトの聖地である「タラの丘」に由来するそうです。スカーレット・オハラもアイルランド移民の設定です。)

ジョン・F・ケネディがアメリカ大統領に当選した時は、アメリカ初のアイルランド系(カトリックの)大統領として、大きな話題になったそうです。

そして、21世紀を迎えた現在では、アイルランド系に対する差別もほぼなくなり、多くのアイルランド系アメリカ人が活躍しています。

Wikipediaの「アイルランド系アメリカ人」の項を見ると、その錚々たる面子に驚かされます。

苗字(ファミリーネーム)の綴りが「O’」「Mc」「Mac」で始まる人は、アイルランド系なのだそうです。

マッカーサーとかマグワイアとかマッケンローとか、マクドナルドやマッキントッシュとか、オマリーとかオニールとか、ですね。

ちなみに、「O’」「Mc」「Mac」には、「~の息子」という意味があるのだそうです。

※次の記事→ヨーロッパで最も古いパブ「ザ・ブレイズン・ヘッド」で味わうギネスと音楽【ダブリン】

スポンサーリンク
PC レクタングル (大)
PC レクタングル (大)
スポンサーリンク