”贅を尽くした”「国民の館」とチャウシェスク時代のお話【ルーマニア】

※前回の記事→民主化革命の成し遂げられた町「ブカレスト」【ルーマニア】

ブカレスト【ルーマニア】

ルーマニアの首都「ブカレスト」の町。

町の中心部にある「統一広場」から西を眺めると延々と広大な街路が続いているのが見えます。

そして、その奥には、ばかでかい宮殿が聳え立っています。

チャウシェスクの建設した巨大行政センター「カーサ・ポポールルイ」(Casa Poporului)、「国民の館」と呼ばれている建物です。

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シャンゼリゼを模したという「統一大通り」を歩いて「国民の館」へ

その「国民の館」を目指し、目の前に広がる「統一大通り」を歩いていきました。

パリのシャンゼリゼを模したといわれるその通りは、本物よりも6メートルも幅が広いそうです。

装飾的な街灯が等間隔に並び、青々とした並木が豊かに繁っています。

中央分離帯には噴水が設置され、通りの両側には統一された高さを持つ豪華な白いビル群が建ち並んでいました。

けれども、この通りにはシャンゼリゼのような華やぎが全くありませんでした。

色の無い建物群が無機的に感じられるということもあるのでしょう。干上がった噴水や、整備の行き届いていない緑地帯が荒れ果てた印象を与えるということもあるのでしょう。

けれども、一番の理由は、この通りに商店が少なく人通りがほとんど無いということです。

かつて、この辺りはブカレストで最も古い地区だったのだそうです。

中世からの歴史を持つ街並みは、きっと人が集い、賑やかであったに違いありません。

整然としてはいるのですが、作り物のように現実感の無い現在の街並み。

古い街並みを破壊し、強引に作り変えられた街路が華やかになるはずがありません。

人の温もりの感じられない街は美しくない。そう感じました。

ブカレスト(国民の館)【ルーマニア】カーサ・ポポールルイ(国民の館)

「国民の館」は、間近で見るとますます圧倒的な巨大さでした。

そして、内部に入った私は、そのスケールの大きさにさらに驚かされることとなります。

内部の豪華さはまさに圧巻の一言❗️

これまで様々な宮殿や城を見たことがありますが、これほどの豪華さにはお目にかかった事がありません。

手元のガイドブックによると、建設費は日本円にして1500億円以上、部屋数は3107に及び、その大きさは世界中の建物の中でもアメリカ国防総省ペンタゴンに次ぐ規模なのだそうです。

”贅を尽くした”「国民の館」の内部

ブカレスト(国民の館)【ルーマニア】豪華な「国民の館」

ブカレスト(国民の館)【ルーマニア】シャンデリアも豪華

ブカレスト(国民の館)【ルーマニア】大理石がふんだんに使われています。

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内部は、床や天井、柱や階段に至るまで全て大理石で造られています。

大理石の表面は純金の装飾で一面に覆われていて、恐ろしく広いホールには馬鹿でかいシャンデリアが吊り下げられています。

回廊は空港のコンコースのように広く、大理石の列柱が鏡のようにピカピカに磨き上げられた床面に見事に映し出されていました。

「贅を尽くす」とはまさにこのことです❗️

ブカレスト(国民の館)【ルーマニア】正面のテラスから「統一大通り」を望みます。

ブカレスト(国民の館)【ルーマニア】チャウシェスクが眺めた風景

正面のテラスから外を眺めてみました。

そこからは、一直線に続く「統一大通り」とその両脇に並ぶ高さの揃った白いビル群がどこまでも続いているのが見えました。

ため息が出そうなほどの圧倒的な眺めです。

私は「なるほどー」と思いました。

このテラスから大通りを眺めると、まるで世界を見下ろしているような気分になります。

チャウシェスクはきっと、この眺めを見たいがためにあの大通りを造ったのです。

チャウシェスク時代の暮らしについて聞く

チャウシェスクが、この「国民の館」にお金をつぎ込んでいる頃、国民は貧しい生活を強いられていました。

貧しかっただけではありません。国民は様々な圧力や不自由に苦しめられていたのです。

シゲット・マルマツィエイの町 【ルーマニア】シゲット・マルマツィエイの街

ルーマニア北西部マラムレシュ地方の小都市「シゲット・マルマツィエイ」に滞在していた時、街にある「レジスタンスミュージアム」を見学しました。

観光案内所の女性が、

「まず始めに、町の歴史を知るためにレジスタンスミュージアムに行くといいわよ」

と勧めてくれたからです。

「レジスタンスミュージアム」は倉庫のような建物でした。

係員の女性に聞くと、その博物館はかつて刑務所だったところを改造したものなのだそうです。

ここは、現在はチャウシェスク独裁政権時代の残虐行為や、民衆の抵抗の歴史を紹介する博物館となっていました。

彼女は館内を案内しながらチャウシェスク時代の生活について説明してくれました。

1965年、チャウシェスクは党第一書記に選任されました。

貧しい靴屋の見習いの出でありましたが、その才覚と抜け目なさにより瞬く間に一国のトップにまで登りつめたのです。

就任当初、彼の評判は悪いものではありませんでした。

彼はソビエトのチェコ・スロバキア介入を公然と批判しました。そんなソビエトに迎合しない姿勢が西側諸国に評価された彼は、アメリカから最恵国待遇を受けるなど西側と密な関係を築くこととなります。

「西側に認められた指導者」というイメージは国民への最大のアピールとなったのです。

けれども、その後、チャウシェスクは国民の生活を圧迫するような政策を次々に行っていくことになります。

第二次オイルショックや経済不況により工業化政策が破綻すると、彼は対外債務の返済のため国内の多くの食料を輸出に回しました。

「飢餓輸出」と揶揄されるその政策により、農業国ルーマニアの市場には食料がほとんど出回らなくなってしまいました。

当然、彼に対する批判が巻き起こります。

そして、彼は自分や党への批判や反乱を封じ込めるため、テレビや書籍などの情報を管理し、セクリターテ(秘密警察)によって盗聴網を全国に張り巡らすなどの恐怖政治を行ったのです。

人々は秘密警察の影に怯えながら日々を過ごすことを余儀なくされました。

係員の女性は、独房に架けてある写真を指差しながら説明します。

チャウシェスクに批判的な言動をした者は秘密警察により逮捕され、過酷な環境の刑務所に収容されたのだそうです。そして、その多くが処刑されるか所内で死亡したのだとのこと。

また、彼女は、自分がまだ学生だった頃の、チャウシェスク時代の末期の様子についても話してくれあました。

子供の頃は貧しく自由がなく、テレビや新聞は政府のプロパガンダしか報道しないため、本当の情報はほとんど入ってこなかったそうです。

食糧だけでなく燃料やその他の物資も少なく、寒い冬を微々たる燃料で過ごさなければならなかったとのこと。

人々はその抑圧された状況に大いに不満を持っていましたが、それを声高に言うことは出来なかったそうです。

みんな、秘密警察に捕まるのを恐れていたからです。

誰が密告するかわからなかったのだとのこと。

ブカレスト【ルーマニア】統一大通り(ブカレスト)

1989年の革命のとき、彼女は本当に興奮したそうです。

「今は自由になり、こうして外国人と話すことも出来るのよ」

彼女はそう言いました。

民主化された現在のルーマニアの良いこと悪いこと

彼女によると、チャウシェスク時代の負の遺産は他にもたくさんあるそうです。

女性は子供を4人生まなければいけないという法律があったこと(当時チャウシェスクは国力増強のため多産化政策を行っていた)。

その子供たちの多くが孤児となり、ストリートチルドレンとして現在社会問題化しているらしいということ。

また、エイズの問題も彼女は語りました。

多産化政策で生まれた子供の多くは孤児院に収容されたのだそうです。

慢性的な物不足のこの国では満足な食料を孤児たちに与えることができませんでした。

そのため栄養補給ということで血液注射が行われたのだそうです。

使いまわしの注射器は子供たちにエイズを蔓延させることとなり、現在でも大勢の子供たちが死に瀕しているのだとのこと。

革命後、食料品の輸出は停止され、新鮮な肉や野菜が市場に並ぶようになりました。

秘密警察もいなくなり盗聴の心配もなくなりました。テレビや新聞は様々な情報を配信するようになり人々は外国にも行けるようになりました。

「本当によかった」

そう彼女は言います。

けれども、世の中はそう単純ではなく、民主化と市場競争のシステムは極端な貧富の差を生み出し、都市には犯罪が増加したそうです。

失業者が増え、対外債務の増加とともに物価は急上昇しました。

ルーマニア人の生活は現在でも苦しく、市場競争化により革命前より貧しくなった人も多いそうです。

そういう人たちの間では共産主義時代を懐かしむ声も多いと言います。

だけど、資本主義や市場原理が良いか悪いかは別として、革命は起きてよかったのだと思います。

どんなに生活が苦しくなろうとも、貧富の差が増大しようとも、知りたいことを知ることが出来ること。また、盗聴や密告の影に脅かされずに済むこと。

その「自由」があるという豊かさは何にも替えがたいものであるはずだからです。

2007年、ルーマニアはEUへの加盟を果たしました。

未だに西欧諸国とは経済的な格差が存在するものの、域内での移動、就労、通商の自由が保障されることとなりました。

ルーマニアの人々は自由を享受し、外国に働きに出たり、旅行したりすることができるようになったのです。

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