かつて日本人が活躍した、赤レンガ色の遺跡「アユタヤ」【タイ】

※前回の記事→ルンビニー・スタジアムで見たタイの国技「ムエタイ」【タイ】

微笑みの国「タイ」(Thai:ประเทศไทย)

「トムヤムクン」や「ガパオ」といったタイ料理は、もはや日本ではメジャーな存在。「プーケット」や「サムイ」などのビーチリゾートも旅先としてはお馴染みになっています。

それ以外にも、音楽や映画などポップカルチャーや、伝統芸能、歴史ある遺跡など、タイには面白いものがたくさん!

エネルギッシュだけど、どこかゆるいのが魅力な、タイの旅です。

今回は、アユタヤです!

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かつて日本人が活躍した赤レンガ色の遺跡「アユタヤ」(世界遺産)とその歴史です


アユタヤワット・プラシーサンペット。15世紀末に建てられた王室寺院

熱帯の樹々の緑の中に、赤茶けたガレキがいくつも埋まっています。それらはかつての王都、「アユタヤ」を構成していたパゴダや王宮の跡です。

王都には人の生活の痕跡が全くと言っていいほど失われていました。アユタヤは今から230年も前、ビルマによって徹底的に破壊しつくされてしまったのです。

「アユタヤ」は、あまり顧みられることのない東南アジア史の中でも、日本人にはよく知られた存在です。

アユタヤには、かつて「日本人町」がありました。アユタヤは、14世紀中頃から18世紀頃まで数多くの日本人が暮らしていた都市として、日本の歴史に記憶されている町なのです。

その日本人町の居住者の中で最もよく知られた存在は、「山田長政」でしょう。彼は、17世紀初頭にシャム(当時のタイ)に渡り、アユタヤ王朝の権力の中枢にまで登りつめた人物として知られています。

約350年前、長政はこのうだるような熱帯の地で、冷厳な権謀術数と戦っていたのです。

アユタヤワット・プラシーサンペット。3基の仏塔が立つアユタヤの象徴です。

山田長政は、天正18年(1590年)頃、駿河国沼津(現在の静岡県)に生まれたとされています。けれども、彼に関する歴史的な資料がほとんど残っていないため、その出自は未だよくわかっていないというのが実情です(伊勢や尾張などで生まれたとい説もあります、長政という人物など存在しないという説もあるそうです)。

17世紀初頭、関が原で勝利した徳川家康は海外交易に熱心な人物でした。彼は安南や交趾(ベトナム)、暹羅(アユタヤ)や呂宋(ルソン)などと外交関係を結び、1604年に朱印船制度を確立します。

それ以後、1635年に鎖国が完成するまで、商人や大名などによる朱印船が約350隻も海外に渡航したと言われています。

長政がシャムに渡ったのは1612年のこと。朱印船貿易真っ盛りの時代でありました。

アユタヤワット・プラシーサンペット

当時のシャムは、アユタヤ王朝によって支配されていました。

アユタヤは、中国・ベトナム・日本・琉球と、東南アジア島嶼部・インド・アラブ・ペルシャ・ヨーロッパなどを繋ぐ貿易の中継地として繁栄を享受していました。

長政は、このアユタヤで貿易活動に従事。後に津田又左右衛門筆頭の日本人傭兵隊に加わり、次第に頭角を現していきます。そして、そのうちアユタヤ郊外の日本人町の頭領となっていくのです。

1628年、長政はアユタヤ王朝の国王「ソンタム」の信任を得ることに成功し、アユタヤ最高の官位である「オークヤー」に任ぜられ、セーナーピムックという名前を賜りました。そして、チャオプラヤー川に入る船から税を取る権利を得ます。

長政はとても有能な指導者であったらしく、戦国時代を生き抜いてきた優秀な日本人傭兵隊とともに数々の武勲を立てました。その結果としての「オークヤー」賜命でした。

アユタヤワット・プララーム

長政の尽力により、日本人社会はアユタヤの一大勢力となりました。

アユタヤでは、日本人だけでなく華僑やイスラム商人も大きな勢力を保持していたのですが、軍事力だけでなく貿易面においても日本人勢力の力は図抜けた存在であったようです。

このような軍事的背景とは別に日本は朱印船貿易により、貿易面においてもアユタヤ日本人町は多くの発展を遂げた。まずアユタヤ君主・エーカートッサロットの時代には日本人町に比較的規模の大きい港が建設されている。その後、前述のようにアユタヤはタウングー王朝に対する防衛力を高めるため多くの武器を必要としていたので、刃物の生産で有名な堺からは多くの刀が輸出された。これらは、タイ風の刀や槍の先端に使われるなどして改造され流用された。17世紀初頭におけるアユタヤの武器の多くはむしろ国内生産の刀よりも日本製のものが多かったとも言われる。これらの刀の一部は現在でもバンコクの王宮武器博物館などで見ることが出来る。一方、日本はその豊富な銀を背景にアユタヤから陶器、皮革製品(主にシカ、サメなど)、キンマ塗りなどを買った。特に皮革製品のタイから日本への輸入量はずば抜けており、江戸初期のアユタヤから日本への皮革製品の数は20万枚以上にも昇った。

アユタヤ日本人町 – Wikipedia

アユタヤワット・プララーム

しかし、そのような長政と日本人社会の隆盛は、華僑やイスラム社会、そして、アユタヤ宮廷内においても警戒され、反感を買っていくこととなります。

長政はその後、タイ南部のナコーンシータマラートに左遷させられます。パタニ王国に対する防衛という名目で、ナコーンシータマラートの知事にさせられたのです。

この直接的な契機は、長政が当時絶大な権勢を誇っていたシーウォーラウォンが王位に就くことを断固として反対したことです。そのため、宮廷の反感を買い、王位に就いたシーウォーラウォン(後にプラーサートトーンとなる)によって左遷させられてしまったというのです。

長政の左遷と共に、宮廷内における日本人の影響力は低下し、それに代わって華僑の力が大きくなっていきます。

そして、長政自身も1630年、パタニ軍との戦闘中に脚を負傷した際に傷口に毒入りの膏薬を塗られ、殺されてしまうのです。オランダの史料によると、長政に毒を塗るよう命じたのは、プラーサートトーンであると記されているそうです。

アユタヤワット・ヤイチャイモンコンの仏像

長政の死と同じ年、日本人町はプラーサートトーンによって焼き討ちされました。

「日本人は反乱の可能性がある」という理由からだそうです。

この焼き討ちに至った事件は1630年に起こります。官吏に貿易船の行動を妨害された日本人商人たちは、大蔵省のアラビア人「シャイフ・アフマド」に抗議を行います。

しかし、それが受け入れられなかったため、日本人は兵を集めて王宮を占拠。プラーサートトーンを人質に王宮に取り立てこもりました。

それに対し、シェイフ・アフマドは、華僑やアラビア人、タイ族などの義勇軍を組織して攻撃し、日本人を宮廷から追い出すことに成功します。

そして、解放されたプラーサートトーンの命によって日本人町は焼き払われ、住民は虐殺されてしまったのです。

アユタヤワット・ヤイチャイモンコン

この事件の後、アユタヤ王朝に於ける日本人勢力は急速に衰退していくこととなります。

1632年、事件後に海外へと逃れていた日本人たち約400名がアユタヤに再び集結し、日本人町は再興され、貿易が再開されるようになったそうですが、彼らは二度と権力の中枢へと登りつめることはありませんでした。

日本人町は、以後18世紀まで存続していたと言われています。

けれども、1635年に発布された徳川幕府の海外渡航禁止令は、アユタヤへの日本人の流入を途絶えさせました。

そして、次第に日本人の数は減少していき、そのうち現地のタイ族と同化し、自然消滅したとされています。

アユタヤ遺跡には「日本人町跡」という観光スポットがあります。

しかし、ここにあるのは、「アユタヤ日本人町跡」と日本語で書かれた石碑だけ・・・。

日本人が働き、恋をし、子を育て、戦ったその痕跡は全く残されていません。

ちなみに、歴史的史料に乏しい山田長政がこれほどまでに人々に知られることとなったのは、20世紀初頭に日本がアジア進出するに際して、当時の大日本帝国が彼の存在を利用しようとしたからだと言われています。

けれども、約350年前、このアユタヤの地に多くの日本人が生きていたことは事実です。現在のタイ人の中にも、日本人の血が混じっている人がいる可能性は高いと言えるでしょう。

アユタヤ夕方のワット・プラシーサンペット

日本人町が焼き討ちされてから約130年後の1767年、アユタヤ王朝は滅亡します。

隣国ビルマのコンバウン王朝の軍隊によって、王都が徹底的に破壊されてしまうのです。

ビルマ軍が撤退した後、時の王「タークシン」はバンコクの南、チャオプラヤー川の対岸にあるトンブリーに遷都します。タークシンはその後、乱心をきたしたため「ラーマ1世」によって処刑されます。

そして、そのラーマ1世によって興されたのが、現タイ王朝であるチャクリー王朝です。

夕方の日の光を浴びたアユタヤの遺跡。

山田長政によって繁栄した日本人町も、プラーサートトーンが権謀術数を巡らせたアユタヤ王宮も今はありません。

盛者必衰、諸行無常。歴史は川のように流れ、常に移り変わってゆくのです。

※次の記事→何にもなさそうな、タイ南部の「ソンクラー」の町に行ってみる【タイ】

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